「自然のものには自由があるアートと自身のルーツへの想い」(前編)

「自然のものには自由がある アートと自身のルーツへの想い」(前編)

更新日:


プロローグ

子どもが自由に線を引き描くように、感性や感覚に自らの意識を委ね描いたとき一体どんなものが生まれてくるのか。内なるものを追求し続け辿り着いた線画によるライブドローイング(一発描き)というスタイルで、国内外で活躍するアーティスト・狩集広洋(かりしゅうひろみ)さん。大阪を拠点に活動していましたが、2019年、両親の故郷である南さつま市大浦町へと移住しました。自らのルーツである大浦町、そしてアートへの想いを伺いました。

インタビュー:奥脇真由美 撮影:高比良有城 取材日:2022年2月

薩摩半島の南西端に位置する南さつま市。リアス式海岸の複雑な地形と美しい海が織り成す絶景を望むまちだ。南さつま市の中心部から20分程、西へ車を走らせると辿り着くのが大浦川の周囲に広がる大浦町。大阪を拠点に国内外で活動していたアーティストの狩集広洋さんは、2019年にこの地に移り住んだ。きっかけは両親の他界。亡くなった両親を二人の故郷に帰すと同時に、自らも家族とともに移住することを選んだ。

力強い自然に魅せられるまち

部屋の中に、土の入った飼育ケースがいくつかあった。
カブトムシとクワガタムシの幼虫を育てているのだそうだ。

「荒れ放題の祖父のクヌギ畑を整理したら、カブトムシやクワガタがだくさんいたんです」
カブトムシが捕りたいとクヌギの木を探していたところ、長年放置された祖父のクヌギ畑があることがわかり、息子さんがとても喜んだそう。

「息子は自然とか生き物がむちゃくちゃ好き。今は鉱物にはまっていて、『水晶採りたい』と言ってちかくの川で採ってきたり、黒曜石かなんかが転がってるのを割りまくったり。こっちにきてからパワー全開ですごい面白い。外に出て魚獲ったり、虫捕まえたり、石割ったりしてますよ」

溢れるような自然のなかで解き放たれ、どんどん育っていく好奇心。狩集さん自身、子どもの頃には2、3回ほどこの地に来たことがあり、当時は迫るような自然に圧倒されたという。

大浦町で生まれ育った両親は結婚後大阪に移り住み、狩集さんは大阪の吹田市で育った。成人してデザイナーとして働いていたが、自らのアートを追求するべくアーティストへ転身。関東を拠点としていた頃に、両親が倒れ介護が必要となって大阪へと戻る。その後は大阪を拠点にして両親を支えながらアーティスト活動を続けていたが、数年経ち両親が他界。その時に考えることになったのが「墓をどこに持つのか」ということだった。

「狩集」のルーツへ

「墓をどうするのかっていうのは凄い悩んだ」と振り返る狩集さん。両親もともに長く暮らし、自分の住まいもある大阪に持つのか、両親の出身地である大浦町に持つのか。両親は生前大浦町に帰省したがっていたが、タイミングが合わず叶わないままだったという。

大阪に墓を持つことを考えたとき、実際は仕事で全国各地だけでなく国外へも出向き、大阪を不在にすることも多かった。そのため、大阪に持ったからといって十分に墓守ができるというわけでもなかった。一方で、両親の出身地である大浦に墓を持つことを考えたとき、自身は幼少期に数回行った程度で馴染みはなかったが、「狩集」のルーツとも言える場所が、貴重なものに思えた。

「先祖代々大浦から離れていないと思う。そういうのも珍しいし、子どもたちや子孫にもそのことが伝えられるように、(両親の)出身地に墓を残したいと。両親が墓をここにと言っていたわけではないけど自分たちでそう決めました」

両親の生まれ育った地域には狩集原(かりあつまりばる)遺跡という弥生時代のものとされる遺物が出土した場所もあり、そこも狩集さんのルーツであるかは定かではないが、もしそこから続いているなら一族には相当に長い歴史がある。そんな想像を膨らませると、先人たちが築いてきた地元の歴史も面白く、移住後は南さつま市民大学講座で南さつま市の歴史を学んだりもしているそうだ。

お墓をどこに持つのかについてはもう一つ、自身の作風も、大浦のような自然豊かな環境を求めていることに改めて気付いた。

「僕は人工物をほとんど描かないで、自然のものばかり描いてるんです。大阪にいたときは、(自生している)自然の木を一本見に行くのにも、車を1時間走らせなければならなかった。子どももエビを獲ったり魚を釣ったりするのが好きなのでそういう自然のある場所によく一緒に連れて行ったりしてたんですけど、それやったらいっそのことこっち(大浦)にと。なんで自然のものばかり描いているのに、こんなに人工物ばかりある都会に住んでいるのかというのもあって、こっちに移って来たんです」

豊かな自然に囲まれた南さつま市大浦町

豊かな自然に囲まれた南さつま市大浦町

空家バンクで見つけた住まい

最終的に、大浦町のお寺に納骨堂を買い供養していくことを選んだ狩集さん。しかし当初は移住するつもりではなく、墓参りや子どもの夏休みに長期滞在できるような空き家を納骨堂の近くに借りようという考えだった。そんななか、南さつま市の「空家バンク」で見つけたのが現在の家。当時は月1万円で賃貸に出ており、安さに惹かれて借りることにした。しかし、しばらく足を運ぶことがなかなかできず3年ほど経つうち、家は傷み、庭はジャングル状態になってしまう。また、賃貸ではなく買い取ってほしいと家主からの相談もあり「それならばもう大浦に住んで、家を治しながらここを拠点に仕事をしていこう」と移住に踏み切ったのだという。
住まいは県道を挟んで目の前に川が流れ海も近い立地。釣りもよくするという。

「その辺の堤防や地磯で釣りをよくするんですが魚影が濃くて下手な僕でもよく釣れます。大阪に住んでいたときは、こういう環境に行こうと思ったら車で3、4時間走らなだめなんですよ。時間をかけて行っても人がいっぱい来るから釣れない。海が近くですぐに釣りができるので自分で言うのも何ですが釣りがうまくなりました。鹿児島は、山形屋(県都・鹿児島市の市街地にある百貨店)から5分程度の堤防でもマダイやブリが釣れたりする。それがまた凄いですよね」

と、移住者ならではの視点で鹿児島の海の魅力も語ってくれた。

「自然のものには自由があるアートと自身のルーツへの想い」(前編)

自然のものには自由がある

ところで、なぜ狩集さんは「人工物はほとんど描かないで、自然のものばかりを描く」のか。

大阪出身の狩集さんだが長く暮らしていた吹田市はかつて緑豊かな場所だった。1970年に行われた大阪万博。吹田市にはその会場が広大に整備された。

「万博前までは山もあったし、山の中に池があったり、すごい自然があった。万博後、一気に開発が進んで都会になって。関東に15年くらい住んでいたときがあったんですが、たまに大阪へ帰って来るとどこがどこだか分からないくらい、山が切り崩されて新しい家が建ったりしている。もともと森だったところはなくなって、緑は人が植えた木ばかり」

地元の変わりゆく姿をまのあたりにして、子ども心にワクワクした気持ちもありながら、これまで自分たちの遊び場だった山や緑が切り崩されていくことに苦しさを感じたと振り返る狩集さん。

「なんだこれは、どうなるんやろう未来はと思った。だんだん歳が行くにつれて、『あ、これ面白くないな』と。(人が作ったものは)全部管理されて、自由がなくなってくる」

狩集さんがアーティストとしてもっぱら「自然」や「生き物」を描く対象としている理由もそこにある。

「自由だからですよ。自然のものには正解がない。人間の作ったものには設計図や寸法があったりして正解が決まっているけれど、例えば生き物なら、魚にしても、大きいものもいれば小さいものもいる、目が大きいものや小さいもの、いろんなものがあって正解がない、自由なんですよ」

正解も不正解もない自由のなかに、何かが生まれる可能性を感じて、狩集さんは描いている。

後編では、狩集さんの鹿児島での日常や地元の人たちとの交流だけでなく、アーティストとして現在の作風に至るまでの想いをたっぷりと伺います。

-移住者インタビュー動画, 南さつま市に住む狩集広洋さん, 一覧用, 南薩, 動画アーカイブ, 移住者インタビュー
-,