プロローグ
インタビュー:奥脇真由美 撮影:高比良有城 取材日:2021年12月
祖父との思い出を胸に叶えた畜産農家の夢
雄々しい高隅(たかくま)の山々を望む鹿児島県鹿屋市の郊外。田畑の広がるのどかな環境に、時折牛の鳴き声が聞こえる。大阪生まれ大阪育ちの大山貴之さんは、ここで肉用牛の繁殖農家として独立したばかり。2月には独立して初めて子牛を出荷する予定だ。
牛を育てていた祖父との思い出
大阪で生まれ育った大山さん。
鹿児島は霧島市に父親の実家があり、幼い頃は家族で年に1、2回帰省しては鹿児島で過ごしていた。農業の傍ら繁殖牛を飼育していた祖父。家の敷地内に牛舎があり、大山さんは鹿児島に来るともっぱら牛とふれあい過ごしていたという。
都会育ちの大山さんにとって、牛のような大きな生き物が暮らしに溶け込んでいるのは新鮮な感覚。
「こんな大きな生き物が目と鼻の先にいるような日常というのが大阪ではまずありえなかった。すごく衝撃的でしたし、農業や畜産業でご飯を食べている人がまず周りに誰一人いなかった。こういう暮らしもあるんだなというのが幼い頃の印象です」
牛の世話は幼い大山さんにとって刺激的な非日常の体験。暇があれば牛舎に行って牛を眺めたり草を食べさせたりして過ごした。特に好きだったのは朝の餌やりで、毎朝祖母に起こしてもらっては牛舎へ向かう祖父について行き手伝った。そのあとは祖父宅よりももっと多い頭数の牛を飼っていた親せきの牛舎へも出向いて牛の餌やり。それを終えると朝ご飯というのが帰省時の楽しみなルーティーンだったそう。
「鹿児島に帰ってきたときは観光名所に連れて行ってもらうよりも牛と過ごすのが一番楽しかった」
そんな幼い頃の経験もあって、いつか鹿児島で牛を飼うような生活をしたいという想いは昔から漠然と胸の中にあったそう。
祖父が他界。鹿児島へ
小学校の低学年までは当たり前のように帰省していた鹿児島。高学年になると習い事の都合などで鹿児島に来る頻度は減っていった。大阪で大学まで進みその後は自動車メーカーに就職。
営業マンとして社会人生活をスタートさせた頃、鹿児島の祖父が体調を崩してしまう。孫のなかでもいちばん牛に興味を示していた大山さんに、かねてから牛舎を継いでもらいたいと期待を寄せていた祖父。見舞うたびに帰ってこないのかと言われたが、大山さんの基盤はやはり大阪。友人知人がほとんどいない鹿児島に移り住むにはそれなりの覚悟も必要で、畜産農家の夢を抱きつつも腰は上がらずにいた。
そんな中2016年に祖父が他界。
大切な祖父の死をきっかけに、その翌年畜産農家として独立するべく鹿児島にやってきたのだった。
まずは畜産の勉強から
幼い頃から牛を飼う暮らしに親しんでいたとはいえ、興味本位で手伝いをしていた程度。まずは一から学ばなければと畜産会社の求人を探した。いくつかあるなかで縁がつながったのは畜産業の盛んな鹿屋市の企業。
「大阪生まれ大阪育ちで畜産についてはほとんど何も知らないということ、将来的には独立したいということも話したうえで快諾いただき入社しました。会社としてもこちらの意図を汲んでくれて、独立までにいろんな経験ができるよういろんな部署への異動に配慮してくれていたと思います」
何千頭もの牛を扱う会社。個人経営の畜産農家とは比べ物にならない頭数を相手に、とても濃い経験ができたと大山さんは振り返る。
「牛はいつ消えるかわからない命。分娩中の異変や病気もあれば、危険がないか細心の注意を払っても、なんでそんなところでそんなことするのよって、思いもよらない場所に首を挟んでしまうような一瞬の事故もある。祖父もこんな風に生活に直結する命と日々向き合って仕事をしていたんだと思うと大変だっただろうなと、初めてそこでわかりました」
自動車メーカーで働いていた時とは全く異なる業種、また日々命に向き合うなかで、くじけそうになることはなかったのか。尋ねてみると
「それは不思議となかったですね。刺激的であっという間に日々が過ぎて行く感じで。40年、50年と牛飼いをされている人が『牛はわからないよ、牛は難しいよ』とよくおっしゃるんですけど、2年間牛と向き合ってきてもやっぱりまだまだ知らないことばかり。逆にもっと知りたい、もっとやりたいと興味の方がどんどん湧いてきたので、大変だから止めておこうかなという考えは不思議と全く出てこなかったです」
畜産会社に入社して2年後、大山さんは独立に向けて退職した。
牛舎の確保や整備、繁殖牛の購入など独立にはそれなりにお金がかかる。畜産業の独立に対して支援制度を設けている自治体は少なくなく、大山さんもそういった制度を活用することを考えていた。
ところがいざ当たってみると、見つけたものはどれも未経験者が対象。
2年間畜産会社で経験を積んだ大山さんは、ことごとく要件から外れてしまい壁にぶち当たる。状況を知って前職の会社から戻らないかと声をかけてもらったりもした。
「前職の経営者も今の自分くらいの規模から畜産を始められた方。独立の大変さを知ったうえで『本当にやるのか?』と。会社に残って安定した給料で、休みもある環境で続けた方がいいのではないかと気にかけてもらいました。でもやっぱり自分でやりたいなと。会社に甘えてしまうと独立が遠くなるような気もしました」
各方面に手を尽くしても申請可能な要件に合うものに出会えず、かといって自己資金で何千万と借金を背負って始めるのはとても厳しい。
大山さんは悩んだ末、一度大阪に帰ることを決意する。
畜産農家としての独立を目指す大山さんの前に立ちはだかった支援制度の要件の壁。大山さんは大阪に戻りどのように立て直したのか。
後編では大阪に戻ってから現在の独立までに至る経緯と、移住地・鹿屋での新たな暮らしについてお話をうかがいます。