「幼少期の思い出の場所に、家族と共に新しい暮らしを作っていく」

「幼少期の思い出の場所に、家族と共に新しい暮らしを作っていく」

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プロローグ

指宿市開聞川尻(かいもんかわしり)で有機野菜の生産・販売を行う「ユーファーム株式会社」を経営している浦野敦さん、良美さん夫婦。2018年には有機JAS認証を取得し、指宿市の名産であるオクラやそら豆をはじめ、様々な農作物を育てています。2020年8月には、同地域に一棟貸しの宿「木の匙」を開業。コロナ禍でのスタートとなったものの、開聞岳と東シナ海を一望できる木の匙ならではの風景を求め、様々な人が足を運びます。30代後半で移住し、鹿児島で生まれた息子の太一くん(3)と共に現在は3人暮らし。畑と宿と子育てという慌ただしくも充実した日々を送るお二人です。

インタビュー:福島花咲里 撮影:高比良有城 取材日:2021年

「幼少期の思い出の場所に、家族と共に新しい暮らしを作っていく」

祖父の家で過ごした思い出と、幼心に感じていた都会とのギャップ

開聞岳の麓に位置する指宿市開聞川尻は、日没前になると開聞岳の影に入るため他所よりも暗くなるのが少しだけ早い。町外から訪れた人が帰路につくため大通りに出ると、明るさの違いに驚くこともあるそうだ。町全体を見守るような大きな存在感と、その美しさから薩摩富士とも呼ばれ、指宿市のシンボルとして人々に親しまれている。

そんな開聞川尻で、有機野菜の生産・販売に取り組んでいるのが「ユーファーム株式会社」の浦野さん夫婦だ。ユーファームの「ユー」は夫婦の苗字である「浦野」の頭文字を取り、代表取締役社長を夫の敦さんが、専務取締役を妻の良美さんが務めている。

「幼少期の思い出の場所に、家族と共に新しい暮らしを作っていく」

東京都で育った敦さんと広島県出身の良美さんが、開聞川尻に移住した背景には、敦さんの幼少期の思い出があった。
「里帰り出産ってあるじゃないですか。元々ここが母親の出身地なんですよね。それで生まれだけは指宿市なんです」

小学生の時には、夏休みのほとんどの時間を母親の実家で過ごしたという敦さん。周辺を走り回って、セミを採ったり蝶々を採ったり。時には近くに住んでいるお兄ちゃんに遊んでもらい、その方とは今でも付き合いがあるそうだ。

母親の実家に寝泊まりしながら自然と遊ぶ一方で、東京ではそういった遊びは少なく、幼いながらに都会とのギャップを感じていた。その後は親の仕事の関係で中高時代を香港で過ごし、大学入学のために再び東京へ。就職もそのまま東京で行い、商社勤務が始まった。

鹿児島への移住のきっかけは「疲れた」という素直な感情

都心での仕事は忙しく、週に2、3回は終電に間に合わずタクシーで帰宅することも。
「20代後半の時は忙しすぎて、よくわからないぐらい働いていましたね」と当時の暮らしをふりかえる。
目まぐるしい日々を過ごす中で鹿児島への移住を考え始めたきっかけは「疲れた」という素直な感情だった。
「東京出身者が言うのもなんですけど疲れたな、みたいな。毎日満員電車乗るのもしんどいなとか、仕事も煮詰まってきたなとか。いろいろマイナスな点もあるんですけど、商社という仕事柄、会社を辞めて独立する人を結構見ていたんですよね。それで、もしかして俺もできるんじゃないかな、という勘違いを始め……」

最初は商社での経験を活かして鹿児島県や開聞川尻の商材をまとめて東京で販売したり、海外に輸出することを考えていた。しかし、どんな商材があるのか知らない今の状態では難しい。まずはどんな生産物があるのか知るところから、と自ら農業に取り組む姿が頭に浮かび始める。
「自分で農業をやれば横のつながりもできてくるから、そこから仕入れられるな、と思っていました。」

未経験者が農業を始めるというとかなりハードルが高いことに思えるが、敦さんの場合は祖父が持っていた畑を使うことができた。また新規就農者に対する補助金や給付金の制度を活用できたこともあり、鹿児島への移住と共に農業の世界に飛び込むことができた。

「幼少期の思い出の場所に、家族と共に新しい暮らしを作っていく」

音楽に触れて育った幼少期と、学びを深めた学生時代

一方、妻の良美さん。広島県出身で、音楽が身近に存在する幼少期を過ごした。
「ピアノを始めたのが4歳ぐらい。小学校2年生ぐらいからは広島市のジュピター少年少女合唱団に入って、中学生ぐらいまでずっとそこで歌っていました」

高校生までを広島で過ごし、大学は島根県へ。幼い頃から触れていた音楽の知識を深めるため、中高の音楽教師の免許が取れる教育学部の特音過程に進学。卒業後は音楽療法について学びたいと埼玉県にある専門学校に2年間通った。とはいえ、埼玉県での生活には満足できず、生活拠点を東京都へ移す。
「しばらくは音楽療法を勉強しながらアルバイトをしていました。けれど、どうやってもお金にならなくて、ちょうど住んでいた近くの診療所で募集があったので応募し、採用してもらいました」

草野球のマネージャーに、御神輿の担ぎ手。村人のように過ごした東京暮らし

東京での社会人生活を診療所で働く一方、幼少期から続けていた音楽もやめることはなく、仕事の傍ら合唱団に所属。セミプロとして活動を続けた。東京での暮らしは良美さんに合っていたようで「多分、敦よりも私の方が町に馴染んでいました」とふりかえる。

「東京で暮らしていた町は小さな飲み屋街がいっぱいあって、職場に行くにも駅に行くにもその道を通っていました。疲れたら外でご飯を食べて、友達とも遊んで。あとはよく行っていた飲み屋さんに草野球チームがあって、そこのマネージャーもやっていたんですよ。他にはお祭りで商店街ごとに担ぐ御神輿も担いだりして、村人のように暮らしていました」

「幼少期の思い出の場所に、家族と共に新しい暮らしを作っていく」

夫からの鹿児島移住の提案に、反対する気持ちは起きなかった

そんな充実した東京暮らしの中で、ある日、敦さんから移住の提案が持ち上がる。当時の気持ちを尋ねると、
「前に引っ越すって聞いていたことと、仕事とかもなんとなく辛いんだろうなと思っていて。自分も同じことの繰り返しに飽きてきていたから、違う場所に行ってみるのもいいかなって。反対する気持ちは、そんなになかったですね」
敦さんは幼い頃から縁があったとはいえ、良美さんにとって開聞川尻はあまり馴染みのない場所。移住前の町の印象について聞くと、
「開聞川尻は結婚する前に敦のおじいちゃんとおばあちゃんに会うために足を運んでいて、すっごい田舎で景色がいい場所っていうのは知っていました。お家に遊びに行った時におばあちゃんが自分で織った着物を見せてくれたことがあって、それは今でも良い思い出です」

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とはいえ、慣れない田舎への移住である。不安や心配はなかったのだろうか。
「中途半端な都会に住むぐらいだったら、ど田舎に住んだ方が絶対楽しいと思っていました」

都会から田舎への移住に対する不安や心配事の1つとして、虫の多さが挙げられることが度々ある。良美さん自身も「虫は大っ嫌い。特に蛾と蝶が苦手です」とのこと。移住から5年ほどが経った現在は虫とも戦えるようになったようだが、それらがストレスにならないのか気になって尋ねたところ「東京にも蛾はいるので」とスパッとした返事が返ってきた。

そうして、2016年4月に指宿市開聞川尻へ移住。
夫婦2人のかごしま暮らしが始まった。
後編では、新規就農を目指して移住した当時の様子や、2020年8月にオープンした一棟貸しの宿「木の匙」について。さらには3歳の息子さんを育てる中で感じる、田舎での子育てについてお聞きしていきます。

-移住者インタビュー動画, 指宿市に住む浦野敦さん・良美さん, 鹿児島, 動画アーカイブ, 移住者インタビュー