島はひとつの家族。全員で島を守り、育む暮らし(前編)

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プロローグ

鹿児島県十島村。屋久島と奄美大島の間に点々と連なる島々をひとつの行政区として扱うのが十島村である。有人7島・無人5島からなる島々はトカラ列島と呼ばれ、南北約160kmの海域に浮かぶ「日本一長い村」でもある。今回の舞台はそのひとつ小宝島。村役場の出張所で働く中村勝都志さんは今から13年前、先に移住していた父親の介護のため、この島に移住してきた。今ではこの地で家族を持ち、3人の子どもにも恵まれた。「中村家で全島民の一割を占めていますよ」と笑う中村さんに、小宝島との出会いについて話を聞いた。

インタビュー:泊亜希子 撮影:高比良有城 取材日:2023年

「竹の山」からの景色。役場の出張所や小宝島小中学校が見える

父親が最後の地として選んだ小宝島

中村勝都志さんは奄美大島の出身。両親と4人兄弟の3番目として育ち、高校卒業後は進学のために上京した。その後、中村家に事件が起こる。「弟が高校を卒業した後、父が失踪したんですよ」。思ってもみないことだった。「今まで家族を養うためにずっと働いてきた。これからは自分のためだけに生きたい」との言葉を残し、奄美大島から自分の漁船で出ていったのだという。「家族で居場所を探しました。しばらくして、島の漁師仲間から小宝島にいるらしい、との情報を得て。母、姉、弟で小宝島に行き、父の生存を確認しました。なかなか破天荒ですよね」と、当時を振り返る。

時は経ち、元気だった父親が身体を壊してしまう。中村さんは介護のために小宝島に移住することを決意した。移住する前に2度、中村さんは小宝島を訪れている。一度目は成人式で奄美大島に帰省した時に、小宝島にいる父親に会うため。それから約8年後、2度目の訪問時には3か月ほど滞在した。そして2010年、本格的に島に移住する。中村さんが31歳の時だった。

鬱蒼と茂るガジュマルの木

東京から引っ越ししてきた当時、島では携帯電話が使えなかった。「正直なところ、移住当初は早く都会に戻りたいという気持ちで毎日過ごしていました」という中村さんだったが、父親の死が心境の変化をもたらした。「私が住み始めて4年目に父が亡くなりました。3年間、この島で生活してきて、島に愛着が湧いているのを感じました」。父が最後の地として選んだこの島。その理由は何だったのだろう?と模索するうち、その問いはやがて「自分はこの島に何ができるだろう?」という思いへと変わっていった。

3人の子どもの父親となった中村さん。この島を選んだ父親の心境に、自身の体験を重ねていく。「この島の人のあたたかさであったり、ここにいると自分はひとりで生きているわけではない、というのをすごく実感できます。家族を養うためにがむしゃらに働いてきた父が、いざ自分のための時間を見直した時、ここでいろんな人と触れ合ったことが、父に大きな影響を与えたんじゃないか。そんなふうに今は思っています」。

システムエンジニアとして島のIT化に貢献

中村さんは現在、十島村役場の小宝島出張所に勤務している。出張所の窓口業務、定期船の切符販売、住民の生活に直結する困りごとや悩み相談を受けて、ひとつずつ解決していく仕事だ。移住する前は、東京でシステムエンジニアの仕事をしていた。「島のIT化にもけっこう貢献できたんじゃないですかね」と笑う中村さん。パソコンに興味を持つ島の人たちに、使い方を教えていった。

2009年には、待望の携帯電話のアンテナが立つ。住民や観光客のために、十島村の有人離島にアンテナを設置するプロジェクトの一環で、小宝島はその最後の島だったという。「この時は小宝島が全国的にも話題になりました」と、二重の喜びとなったそうだ。

2012年から今の仕事に従事し、およそ10年が経った。その間、鹿児島市にある十島村本庁で臨時職員をしていた奥さまと出会い、結婚。夫婦での島暮らしがスタートした。「移住を前提に結婚してくれるか聞きました。もちろん、島暮らしの不安もあったと思います。私とは少し年が離れているので、自分と同世代の人がいるかな?と心配をしていました。ちょうど、島に赴任していた学校の先生に若い方がいて、良かったですね。だいぶ気持ちが楽になったんじゃないかなと思います」と振り返る。仕事柄、ある程度島の事情を理解していたとは思うものの、「まだ若かったのに、よく付いてきてくれたな」と奥さまの肝っ玉に感謝している中村さんである。

子どもたちのふるさと。この島をなくしたくない

小宝島の全景は、妊婦が横たわった姿に見えるという。「小さい宝」で小宝島だが、「子宝」にも恵まれるという島の伝説の通り、中村さん夫婦は2女1男を授かった。「子どもたちにとっては、ここが生まれ故郷ですから。この島をなくしたくない、後世に残しておきたいという気持ちが、子どもが生まれてから一層大きくなりました」と率直な思いを打ち明ける。

島では親だけが育てるのではなく、地域が子どもを育てる、というのが当たり前のこととして生きている。いろんな人が見ていてくれる。忙しそうにしていると、「代わりに見ておきますよ」と気軽に声をかけてくれる。「島の人たちは全員、家族のように知っていますので、こちらも安心して預けられます。子育てをするにはとても魅力的な環境ですね」。

フェリーの運航が止まった時に、困ったのが子どものおむつだった。「その時も、島の人がうちにあったから使ってと持ってきてくれたんです。その家の子どもはもうずいぶん大きくて、おむつはおそらく数年前のもの。それでも『もしかしたら、使うかも』と、取って置かれたんですね。島の人たちの備えは気合いが違う、と感じたできごとでもありました」。

ゆったりと島の暮らしを営む一方、「この島をなくしたくない」という言葉には、島民の強い危機感がある。「この島も第二の臥蛇島(がじゃじま)になってしまうんじゃないかという不安を抱えて、島のみんなは生活しているんです」。十島村のひとつである臥蛇島。1970年の集団移住を最後に無人島になってしまったという歴史がある。小宝島の人口は54名(2022年6月30日時点)。その半分が学校関係で、赴任中の教職員、児童と生徒。中村さんの説明では「純粋な島の住人は20人から30人程度」というのが実情だ。

「第二の臥蛇島をつくらない」を目標に、十島村では定住促進のため様々な取り組みが行われている。出産育児に関する支援も手厚くなり、有人の7島すべてに子育て支援施設が整備された。村内に産婦人科や助産院はないため島外での出産となるが、提携助産院での出産や産後ケアができる。出産に伴う入院や家族の滞在費にも助成があることで、子育て世代の移住増加につながっているという。中村さん夫婦も鹿児島市の助産院を利用し、家族で泊まり込むなどして、新たな命を育んできた。

小宝島には看護師がひとり常駐し、医師は定期で巡回する。過去に一度だけ、大きな心配が起きた。「ひとり目の子が生後半年で肺結核と診断されました。1週間、咳と発熱が止まらない。最初は県立大島病院の小児科で診てもらい、鹿児島大学病院に移りました。感染症なので、生まれてからの経路を洗い出すなど大変でしたが、結局は分からずじまい。島民の皆さんにも心配をかけました」。この経験は子どもの病気について考えるきっかけになったという。それ以降、幸いなことに大きな病気やけがをすることなく、子どもたちはすくすくと育っている。

「この島で生まれた自分の子どもたちのために、ずっと島はあってほしい。ふるさとがなくなってしまうというのはとても悲しいと思うので、そうならないためにも私にできることは何か?というのを考えながら、一日一日生活しなきゃいけない」。次第に島民としてこの島を守るという覚悟は、揺るがぬものになっていった。今後の夢を尋ねると、少し答えに時間を要した。「この島を残したい。どうすれば残せるのか、という問いが、今の私にとっての夢かもしれませんね」。不思議な縁がいつしか使命を帯びて、中村さんの人生を七色に織り成していく。

後編では中村さんのかごしま暮らし。小宝島のお気に入りの場所や、コロナ後を見据える島での展望を伺います。

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