【後編】生涯現役で、誰かの役に立ちたい。国際ボランティアを経て平島へ

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プロローグ

屋久島と奄美大島の間に点々と連なる島々を、ひとつの行政区として扱う鹿児島県十島村。有人7島・無人5島からなる島々はトカラ列島と呼ばれ、南北約160kmの「日本一長い村」でもある。今回の舞台、平島はトカラ列島中央部に位置し、平家の落人伝説もある島。宮井美津子さんは「看護師として、生涯現役で、人の役に立ちたい」と、この島に来た。「団塊の世代として、良いロールモデルでありたい」と願う宮井さんに、ご自身を含めた平島での人々の暮らしや健康について、話を伺った。

インタビュー:泊亜希子 撮影:高比良有城 取材日:2023年

平島の観光スポット「甌穴(おうけつ)」。青く澄む美しい潮だまりだ

家族の理解に感謝です

JICAのシニア海外協力隊を経て、「まだまだ働きたい」と看護師としての職を求め、2020年2月に平島にやってきた宮井さん。移住当初は島特有の生活習慣や方言にとまどい、まるで外国に来たみたいだったと振り返る。ちょうどコロナ禍が始まった時期に赴任したため、島の人との交流を思うように進められないもどかしさもあった。「通常であれば、平島小中学校の運動会や授業参観などの行事に参加して、交流を深めていたようなんです。けれど行事が中止でしょう。山海留学生で来ている子どもたちの寮に行って、お話をするということもできなかった。人と顔を合わせたり、話したり、食事をしたり、というのが難しかったですね」。

適度な距離を保ちながら、島の日常を見守る日々は驚きと発見の連続だった。宮井さんは持ち前の明るさと好奇心で島の習慣を学び、少しずつなじんでいった。宮井さん自身、移住してからの3年間は一度も出身の横浜市に戻ることはなかった。家族とはオンライン通信でよく話すという。夫も息子も、今までずっと、私のチャレンジを理解してくれましたね。私が振り回して来ただけかもしれませんが、なかなかいい男たちです」と笑う。

島の社交場「あかひげ温泉」

高齢者支援の仕事を通じて、徐々に島の人たちに認知されていった宮井さん。島の習慣がわからない、言葉がわからないなかで、距離を縮めるのに役に立ったのが「あかひげ温泉」だ。「来た当初は、温泉で話をすることが多かったなあ。毎日、見守り支援の仕事で歩いて回っていると、子どもたちが挨拶してくれて。私のことも宮井さん、って呼んでくれます。子どもや島の人たちはだいたい、下の名前で呼び合っていますね。同じ名字が多いからかな。それも素敵だな、新鮮だなって思います」。

“よそ者”だからこそ、役に立てることがある

島の生活になじむコツをたずねると「人に声をかけて、お付き合いしていくしかないですね」と明快な答えが返ってきた。「私は人と話をするのが好きなんですね。おしゃべりだって言われます(笑)。私の仕事は相手の話を聞くこと。ですが、話のきっかけは自分がつくる。人の話を引き出すのが上手、というのは今までの経験で培われた部分はあるかもしれません」と自負する。

話のきっかけは自分から作って、話し始める。「わあ、お餅ついたんですか。どうして?」と、素朴な疑問をどんどん聞く。こちらから見て、気づいたことをどんどん話して、相手が話し出すまで、とことん付き合ってきた。そこまでするのには理由がある。「島の人たちは本当の悩み、苦痛というのを簡単には話さないですね。島の濃い人間関係の中にいる、というのもあるかもしれません。だからこそ、私のような赤の他人が役に立てることもあるんです」。

あかひげ温泉でおしゃべり

長い月日をかけて、島の人たちの心情を理解してきた宮井さん。「島の人は頼もしいですね。強いですよ。特に女性が頼もしい」と日々感心しているという。昔、島の女性たちは平島を離れて、奄美大島や沖縄、鹿児島に渡り、仕事をしてきた。ある者は寝食を忘れるほどに紬を織り、家を建てたという。両親の面倒を見た、舅や姑の面倒を見た、学校の給食の仕事、町内会の仕事、島のコミュニティの仕事、神行事の仕事…。歯を食いしばって、大変な環境を乗り越えてきたのだろう。「80代の女性は『今は良くなった。昔は本当に大変だった』と。そう言うんですよ」。宮井さんは静かに悟った。「彼女たちには覚悟がある。ものがなくても生きられます」。

健康長寿1位の島に

第二次世界大戦後のベビーブーム期に生まれた「団塊の世代」。日本経済の高度成長期を支えてきた世代も、後期高齢者に差し掛かっている。宮井さんもその一人だ。リタイヤ層の移住について思うことを聞いてみた。「Uターンならいい。一方で、まったく違う土地に行くというIターン移住は難しいかも。まず自分が健康でないといけませんから。島に来たら健康的な生活にはなるでしょう。ただ、リラックスして自然を満喫して余生を楽しもう、老後を過ごそうというのは…」。島の医療体制は県本土と比べると、十分には整っていないという現実もあり、宮井さんは言葉を濁した。

島の環境を意識した上で、宮井さん自身も健康に気を使っている。今後も島で働き続けるために、定期的に服薬していた薬を主治医と相談したうえでやめた。「食事と運動と睡眠でどこまでできるか、自分の体でテストしているの。仕事で家々を回るから、足腰は鍛えられます。食事も魚と野菜、ほぼ島の食材で暮らしています」。健康で、できれば薬も少なく、若い人たちに国のお金が回るように、と願う。団塊の世代として、自分たちが良いロールモデルとなり、今の社会状況を解決しなければとの問題意識があるという。

循環する社会になるために

宮井さんが、島のお兄さんやお姉さんの生き方に触れ、自身の健康に気を配っているうちに気付いたこと。「お腹がすいたら食べて、食べたら動いて、というのが健康にはいいですね。陽を浴びる、風を受けるというのも大事なこと。島には売店もないんですが、温泉の横で、採った魚をおろして売ってくれる人がいるんですね。島の人たちが温泉あがりに、刺身を買って帰る。魚のあらはタダでくれるので、汁物にする。菜っ葉や大根は自分たちで育てたもの。みんな物々交換していますね。魚を釣ったからあげる。じゃあ、お返しに大根と。魚と大根じゃ価値が釣り合わないじゃないか、って思うけれども、そんなことじゃないのね。もらったら、何かあるものでお返しする、というのが村の流儀。私もいろいろと頂いて、あげるものがない、っていつも言うの。そんなのいいよ、って。ここでは、みんなで分け合うことが当たり前のことなんですね」。

人生の大半を横浜で働き、暮らしてきた宮井さん。都会が恋しくなることはないのだろうか。「うーん、ないですね。都会生活のほうが大変でした、忙しかったですから。今となっては、人がすごく集まっていて、混雑しているな、人が多すぎると感じてしまうかも。やっぱり、人と植物と動物と、循環する社会になるためにね、バランスが必要じゃないかな、と思います」。

看護師として、生涯現役で人の役に立ちたい。その思いでこの島に来た宮井さん。「元気で100歳まで生きたい。島の人たちも一緒に、長生きしたいですね」と、ほほ笑む。目指すは健康長寿1位の島。長生きできる平島だ。

宮井さんのかごしま暮らしメモ

かごしま暮らし歴は?

3年

Iターンしたときの年齢は?

71歳

Iターン移住した理由は?

退職後、看護師としてJICAのシニア海外協力隊に応募し3カ国に赴任。帰国後、まだまだ働きたいと看護協会の求人を探していた時に、十島村での募集を見つけました。地域おこし協力隊として平島に赴任し、任期終了後も引き続き、平島介護予防拠点施設の職員として同様の仕事をしています。

平島の印象・好きなところ

最初の印象は「南国なのに寒い」ということ。旧暦を使い、昔からの行事が多く、その伝統を島の皆さんが守っていること。女性がたくましく、島の人たちと話すことがとても楽しいです。

かごしま暮らしを考える同世代へひとこと!

移住した先で何か役割があるといいですね!

-移住者インタビュー動画, 十島村(平島)に住む宮井美津子さん, 鹿児島, 動画アーカイブ, 移住者インタビュー