プロローグ
インタビュー:瀬戸口奈央 撮影:高比良有城 取材日:2023年
「違う世界を見たい」海外へのあこがれ
東京都出身の志穂さん。「23区のような都会ではなく、小さい頃はよくタヌキが出てきて、あの『平成狸合戦ぽんぽこ』に出てくるような田舎のまちで育ちました」
なぜか、子どもの頃から海外への憧れが強かったと話す志穂さん。「自分でも理由はわかりませんが、日本だけでなく違う世界が見てみたい、自分を試してみたいって思いがありました。16歳の頃、日本語教師になりたいと思って、お金を貯めてひとりで台湾に行って、日本語学校を見て回ったりしてました。今思うと無謀ですよね」と笑う。
大学へ進学し、英文科を専攻。1年生から、夏休みを利用して国際ボランティアプロジェクトに参加して海外へ。2年生で訪れたフランスでプロジェクトのリーダーを務めていたのが、現在の夫となるブノワさんだった。大学の早期卒業制度を利用し3年生で卒業し、そのままフランスへ移住。フランス語は全く話せず、右も左も分からない生活のなか、2年間、語学学校でフランス語を学び、翻訳などの仕事をして暮らした。
僕も日本語を話してみたい
学生時代に出会ったブノワさんと、日本-フランスの遠距離恋愛を経て結婚。フランスでの結婚生活を始めて3年ほど経ったある日、ブノワさんから「僕も日本語を話してみたい」と言われた。
「ブノワは、私の日本人の両親と話すことができない。もし子どもが生まれて、私が日本語とフランス語で子どもと会話したら、自分は日本語が分からない。それでは家族の全部を理解することができない。だから日本語を学びたいと話してくれた。それなら、一緒に日本で暮らしてみようと決めました」
2010年、実はこのとき移住したのが鹿児島市だった。これまで住んでいたフランスのブルターニュ地方は、雨が多くいつも灰色の雲が覆っている地域だった為、移住するなら気候が良い場所がいいと選んだ。「あと、温泉が好きだったので、温泉がたくさんあるのも魅力でした。ほんとに単純です(笑)」
しかし、ブノワさんがフランスでお世話になっていた社長から新規事業の立ち上げを手伝ってほしいと熱烈なラブコールを受け、1年足らずでフランスへ戻ることに。「私は仕事をして、ブノワは日本語学校に通っていました。いろんな人にお世話になったし、ゆったりとした生活のリズムが好きでした。気候もよくて、食べ物も美味しかったよねと、フランスに帰ってからもよく話していた気がします」縁もゆかりもなく来た鹿児島での暮らしは、ふたりにとってあたたかな思い出として残っていた。
もう一度、自分たちの人生を見つめ直す
フランスに戻り、2人の子どもを出産し、子育てに仕事に慌ただしい毎日。4年ほど経った頃、ブノワさんから仕事や働き方について相談を受けた。「ブノワは建設業界で現場監督などの仕事をしてきました。職人たちと心の繋がりがある業界だと思ってきたが、マーケティングやビジネス優先になってきた。そんな世界に少し疲れてしまった。自分は果たしてその世界にいたいだろうか」と。
夫婦で時間をかけて会話し、お互いに自分の人生を見つめ直してみよう、と決めた。そして子どもたちの将来のためにも、ふたりが出した結論は、移住だった。自分たちの求める暮らしができる場所なら、世界中どこへでもいこうと考えていた。
「これは、コロナ禍以前から思っていたことでしたが、まず大事にしたかったのは”小さなコミュニティで暮らす”ということ。顔の見える人たちと一緒に暮らし、その人たちのために仕事をして一緒に生きていたい。だから、小さなまちがいい。住んでいる場所で仕事も生活も子育てもできるところを探していたら、それが全部詰まっていたのが、日本の離島でした」
移住を決めた、十島村からのラブコール
次に、ふたりが共通して譲れなかったものは、自分たちがその場所で”必要とされている仕事をしたい”という思い。
「自分たちから“ここで、こんな仕事がしたい”と始めることもできるのかもしれない。でも、それってIターン者の押し付けなんじゃないかって思うところもありました。だから、その土地に住んでいる人々に必要とされている仕事をしたい。なにか足りないパーツを補うような存在になりたいと、いくつか移住候補地の自治体にコンタクトをとっていきました」
なかでも親身になって話を聞いてくれたのが、十島村役場だった。2021年2月に「保育士になりませんか?」という打診があり、もともと興味があったので、国家試験に向けて準備をしていた志穂さん。「でも7月になって役場から電話があって、悪石島の寮監がいないんですが、なりませんか?と言われたんです。正直びっくりしました。実は、以前提出していたアンケートに“生活が落ち着いたら山海留学の里親になりたい”と書いていたんです。それをみた当時の教育長さんが声を掛けてくださいました」
その誘いに、ブノワさんも大賛成。翌月8月には心を決め、寮監を引き受けた。この時すでに寮のオープンまで、半年を切ったタイミング。ビザの申請に、フランスの家の売却、引っ越し準備、子どもたちの転校手続きなど、本当に3、4ヶ月で間に合うの?と不安になることもあったそう。
「並行して、役場とも密に連絡を取りながら、寮に関して具体的に設備や備品のこと、スケジュールなどの打ち合わせも必要でした。とにかく慌ただしかったけれど、きっとやれないことはない!そう信じて進めていきました」
後編では、十島村での暮らしや寮監の仕事について話を伺います。