屋久島東部、海と山のあいだに広がる「椨川(たぶかわ)棚田」。
日本の棚田百選にも選ばれたこの場所で、今年も秋の夜を彩る「椨川棚田まつり」が開かれた。

棚田の斜面に並ぶキャンドルの数は、なんと777本。揺れる灯りが棚田の曲線を浮かび上がらせ、訪れた人々の目と心を静かに魅了した。
ふるさとへ帰り、棚田を守る
この棚田を管理するのは、文博(ふみひろ)さん。椨川の出身で、37歳のときにUターンし、今は区で田んぼを一括して借り受け、使いたい人に貸し出す仕組みを作っている。

「戦後にここを開墾して、棚田が広がったんです。昭和のはじめの人たちの努力が、今の風景につながっている。だからこそ残したいんです。」
文博さんはそう語る。棚田まつりも、その想いから始まった。

もともと地域の稲作は「豊年祭」で祝われてきた。かつては海岸で、のちに公民館で行われていた祭りを、鹿児島県の棚田研修会で他地域の事例を学んだことをきっかけに、椨川の風景に合った形へと発展させた。

点灯式を予定していた18時に丁度雨に降られるも一切怯むことなく、雨が止んだ瞬間に皆が動き出し、何もなかったかのように点灯式を迎えた様子はとても印象的だった。

灯籠は最初100本からスタート。毎年100本ずつ増やすことを目標にしていたが、コロナ禍で3年間中断。今年、ようやく12回目を迎え、777本の光が灯った。
みんなで守る田んぼ
現在、この棚田には10のコミュニティがあり、それぞれが田んぼを手入れしている。

稲作6年目。普段は山岳ガイドとして働きながら、ヤクシマフィルムのメンバーとして島を記録する撮影活動にも日々取り組む松田浩和さんは、こう語る。
「最初は稲刈りの手伝いで来て、それから田植えもやるようになりました。ここはみんな仲がいいんですよ。水源地が壊れたら直しに行ったり、水守りを分担したり。誰の田んぼだから、じゃなくて“結(ゆい)”の風習が残ってる。」
“結”とは、互いに助け合い、共同で作業する昔ながらの営み。棚田に足を踏み入れると、まさにその文化が今も息づいているのを感じる。
「椨川の人々が紡いできた場所を、これからも田んぼとして残したい。収穫が良ければ、ここで取れたお米だけで一年分まかなえるんです。」と松田さん。

田んぼを始めた当初は反対意見だった妻の愛さん。
今では彼女の方が田んぼ作業に熱心で、長男が一才になった時、自分達で育てた米で一升餅を背負わせることが出来たことは、何よりの思い出だそう。
「一年に一回、ここで皆と集まれる事が何より嬉しくて涙が出そうになる」と愛さん。
棚田が灯す未来
鹿児島県棚田推進協議会が視察に訪れるほど、椨川の取り組みは注目を集めている。
だが、文博さんにとって大切なのは「人に見てもらうこと」だけではない。

「棚田を未来に残したいんです。光を灯すのも、田んぼを耕すのも、すべては次の世代につなぐため。」

会場には、屋久島の民謡界隈でお馴染みの『あべとも座』がやってきて、島の歌声で夜をにぎわせた。
椨川棚田まつりは、田んぼに関わる人たちが中心となって豊作を祝う収穫祭。決して関係者だけのものではなく、田んぼに関心がある人にとっては、先輩農家と出会えるきっかけにもなる。こうした場から新しいつながりや交流が生まれて、この棚田をはじめ屋久島の農業が、これからもっと盛り上がっていけばと思う。
夜の棚田に並ぶキャンドルの光は、先人が拓いた大地への感謝と、未来への祈りを静かに映し出していた。
取材・写真・文:SHU ITO / YAKUSHIMA FILM