
屋久島で四半世紀に渡って、活動してきたフォークバンド「ビッグストーン」の始まりは慌ただしかった。
1998年の結成からすぐにオリジナル曲を量産。2年後には、宅録のアルバム『晴耕雨読』を発売。2005年にはセカンドアルバム『満開桜』をリリースする。これまでに製作した曲数は、100を超えるという。

「ビッグストーン」のリーダーは、主にボーカルとギターと作詞を担当する長井三郎さん。メンバーで、主に作曲を担当する寺田文人さんはギター経験者だったが、ボーカルとギターの笠井廣毅さん、ベースの山下大明さんのふたりは、結成時、演奏初心者。演奏を習いつつバンド活動も始めるという慌ただしさだった。練習に次ぐ練習、島内外の舞台に立ちながら、少しずつ演奏の腕が磨かれていった。


「アオウミガメ」「アオモジの花」「サンコウチョウ」「鬼火焚き」…島の風土や日常の暮らしを乗せた歌は、島内外に多くのファンを持つ。
長井さんとフォークソングとの出会いは、学生時代に遡る。
長井さんが、屋久島から進学のために上京したのは、新宿西口フォーク集会盛んなりし1969年。「歌で世界を変えられる」と若者たちはギターを手に、反戦や愛と平和を歌にしたが、国家権力によって新宿西口から排除されていった。
東京でどっぷりとフォークソングに浸かり、ギターを覚えた長井さんは、1975年に帰島する。
そんな時、かつて夢中になったフォークバンド「ザ・ナターシャ・セブン」の楽曲集『107 song book』の編者で、作詞も多く手掛けた笠木透さんが、「ザ・ナターシャ・セブン」のメンバー・坂庭省悟さんたちと結成したバンド「フォークス」の公演のため、鹿児島にやって来ると聞き、屋久島から飛んでいった。
初対面ながら、打ち上げにも参加。そこから「フォークス」の屋久島コンサートを企画し、530席を手売り、さらには笠木さんの勧めで作詞にも挑戦、坂庭さんの作曲で初めての楽曲「一本の樹」が生まれるという怒涛の展開をたどる。
「雨の日には雨のうたを 晴れの日には晴れの歌を」と繰り返すこの曲は、「フォークス」のコンサートでもたびたび歌われ、「ビッグストーン」のファーストアルバム『晴耕雨読』の最後にも収録された。今では、多くの島民も口ずさむ「ビッグストーン」の定番曲となっている。以来、「それぞれの地域に根ざした歌を歌おう」という笠木さんの教えを胸に、屋久島の日々を歌にしてきた。
加速したり、減速したり、マイペースに活動を続けてきた「ビッグストーン」だが、2023年、結成以来最大の危機を迎える。ギターの寺田さんが55歳の若さでこの世を去ったのだ。

「音楽で人は救われる」
生前からカホン(打楽器)でメンバーに加わっていた寺田さんの妻・幸代さんと、寺田さんのギターを手にした息子の流さんの5人で練習を重ね、新曲を作りながらなんとか日々を乗り切ってきた。
そんな中、持ち上がったのが、横浜でのライブ企画だ。
2014年以来、11年ぶりの横浜でのライブとなる。「楽しかった」「もう一度やりたい」と話していた寺田さんの願いを形にするべく、11月9日、横浜市のライブハウス・サムズアップでライブ『下弦の月』を開催する。
「下弦の月」は日本で古来大切にされてきた「二十三夜」の月。
それは、自分の内面を見つめ直し、不要なものを解き放つ日。
その下弦の月を目指して、人々が集い、心をひとつにする。
ライブには、初期から「ビッグストーン」の録音などを担当してきた福岡県糸島のミュージシャン・浦田剛大さんが、サポートメンバーとして参加。当日は、「ビッグストーン」と縁が深いミュージシャン・YANCYさんとANIEKY A GO GOさん、加藤雄一郎さんもゲストとして駆けつける。
音楽が出会わせてくれたたくさんの仲間たちが、困難な日々から引っ張り上げてくれた。
長井さんが作ったたくさんの曲も、どこかで誰かを引っ張り上げている。そんな音楽の力を信じて、11月9日は観客を迎える。

ビッグストーン連絡先
TEL. 0997-42-2070(民宿 晴耕雨読)