島内外から60人が追悼 らんかん山、墜落事故から63年 奄美市で慰霊式典

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 救急患者のために血液を輸送していた海上自衛隊の哨戒機が名瀬市(現鹿児島県奄美市名瀬)のらんかん山に墜落し、13人が亡くなった事故から63年。犠牲者を追悼する慰霊式典が7日、同市の名瀬小学校体育館であった。奄美大島青年会議所(福島幸樹理事長)が主催し、島内外の市民や自衛隊関係者ら約60人が参列。黙とうや献花をささげ、事故の記憶を風化させまいと心に刻んだ。

 事故が発生したのは1962年9月3日。県立大島病院に入院していた妊婦の手術に必要な血液輸送の依頼を受け、隊員12人を乗せた哨戒機P2V―7が海自鹿屋航空基地を出発した。当時、奄美に空港はなく、哨戒機は名瀬港の中央埠頭(ふとう)へ血液を投下する計画だった。埠頭へ向け低空飛行で旋回した際、翼が山に接触し墜落。民家など32世帯が延焼、住民1人と哨戒機の乗員12人が亡くなった。

 らんかん山の事故現場付近には、追悼と慰霊の意を込め「くれないの塔」が建立された。慰霊式は三十三回忌を期に一度途絶えたが、2005年に再開した。

 7日は慰霊式を前に午前10時、同基地所属のP-1哨戒機が追悼飛行で奄美市街地上空を通過。海自第1航空群司令の大西哲海将補は「亡くなった搭乗員の使命完遂に対する高貴な魂は長く海上自衛官に受け継がれている。奄美大島の皆さまが碑を立て、慰霊と維持整備を継続していることを決して忘れない」と追悼の辞を述べた。式典後、献花された花はくれないの塔に移された。

 式典には新潟県の製造業「タツミ」の創業者、山口龍二相談役も参加した。山口氏は戦時中、家族と共に名瀬市に疎開。事故現場は疎開中に暮らした家のすぐそばだったことなどから、同社は慰霊事業を支援し続けている。山口氏は「伝統は継続することで初めて力を持つ。守り続けていくことが大切」と語った。

 海自OBの山下善健さん(73)=鹿児島市=は当時名瀬小5年生。事故の翌日、現場付近が焼け野原となり、墜落した機体の一部から煙が出ていたことなどを覚えているという。「今年初めて参列し、来てよかったなという思い。島の方が慰霊を続けてくれたこと、関係者の努力をありがたく思う」と話した。

 奄美市は事故が起きた9月3日を「献血の日」と定め、献血の重要性と生命の尊さを伝えている。

63年前に発生した墜落事故の犠牲者13人を追悼した慰霊式典=7日、名瀬小学校体育館

 

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