名瀬大空襲から80年 奄美大島=迫る火の手、街焼き尽くす

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 「防空壕(ごう)まで火が迫り、壕を出て久里川の上流まで逃げた。そこから街が燃え尽きる様子を見ていた。風が強い日だった。港の方から広がった炎は風が吹くたびに春日町方面に倒れ、その長さの分だけ燃え広がった」。太平洋戦争末期の1945年4月20日、米海軍の戦闘機延べ44機が奄美大島上空に飛来し、早朝から夕方にかけて名瀬の街を襲った。大規模な空襲の被害状況を示す記録は多く残っていないが、当時の住民らの手記や回想によれば、この日の「山裾だけを残す大空襲」で「名瀬町は1日で市街地の90%を焼失した」。

 米軍の空爆報告書によると、沖縄県の東海上の空母から出撃した戦闘機は総量約20トンの爆弾を搭載して名瀬港とその周辺の商業地区を攻撃。焼夷(しょうい)弾によって引き起こされた火災は強い北風にあおられて街中に広がり、住宅や商店、公共施設を焼き尽くした。

 当時12歳だった豊純輝さん(92)=鹿児島市=はその日、現在の奄美市名瀬久里町から燃える街を見ていた。「民家はどこも木造、屋根はかやぶきやこけらぶきで燃えやすかった。普段からバケツリレーの訓練をしていたが、バケツの水で消せるようなものじゃない。米軍は人が見えると爆弾を落としてくるので、消火活動もまともにできなかった」と振り返る。

 空襲の背景には、同年3月から始まった沖縄戦がある。米軍は南西諸島一帯を本土攻略への足掛かりとし、特に奄美地域を軍事施設や通信網の重要拠点と見なしていた。陸海軍が陣地を構える瀬戸内町の大島海峡周辺や、飛行場のある喜界島、徳之島に比べ名瀬に目立った軍事施設はなかったが、沖縄への物資や人員輸送の補給・中継地として警戒した可能性が高い。

 この日の空襲は「4・20名瀬空襲」「名瀬大空襲」として一部が記録に残るのみで、記憶の継承は進んでいない。80年の節目を迎えた今年、忘れられつつあるこの空襲の記憶を、改めてたどる。

焼け野原が広がる終戦直前の名瀬市(現奄美市)街地=1945年7月21日(米軍撮影、米国国立公文書館所蔵)

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