【episode11】島暮らし、漁師、魚醤づくり 52歳から新たな挑戦を次々と(後編)

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プロローグ

水産加工品会社で営業として頼れる実績を上げながらも、長年の島暮らしの夢を叶えるため、定年を待たずして退職した村主賢治さん。仕事を辞め、船舶免許や調理士資格なども取得し、本人としては準備万端だったが、移住先はなかなか決まらなかった。ようやく受け入れが叶っ鹿児島県の十島村・平島での生活や漁師修行、そして魚醤づくりについて、さらに話をうかがった。

インタビュー:奥脇 真由美 撮影:高比良 有城 取材日2018年12月

「漁師」という仕事の厳しさを知る

移住先が決まり、満を持して漁師修行を始めた村主さん。釣りは大好きだったし腕にも自信はあったが、漁師としての釣りはこれまでのものとは別物だった。

「それまで楽しんでいた遊びの釣りで釣れていたのは、ほとんど船長の腕。釣れるポイントにうまく連れて行ってくれて、『釣らせて』くれていたんです。でも漁師になると、まず釣れるポイントを自分で探さなければならない。それに、売れる魚を獲るとなると水深300~500メートルを狙わなければならず、それがまた難しい。風の方向や潮の流れ、船の動きなどを読んで、より深い場所に、思い通りに仕掛けを落とすのは至難の業です。もう本当に、情けないくらい釣れなかったし、たくさん怒られましたね。」

南さつま市に住む村主賢治さん

また、漁の師匠が村議会議員をしていた関係で漁に出られない期間もあり、村主さんはそのうち島の土木工事も手伝うようになった。それもまた未経験からのスタートだ。

「苦労しました。道具の名前すら知らないから馬鹿にもされて。ですが未経験でもやるしかない状況。それに島にいると、そういうことまでできないと生活ができない。島の人って、土建業も建設業もたいがいできる。この風のときは雨が降るとか、天気が荒れるとか、気象学も体験として学んでいるんですよね」

島で生きる術を少しずつ身に付けていった村主さんだったが、島民に馴染むのには思いのほか時間がかかった。村主さんが土木工事に精を出す姿を見て「おまえは漁師になりに来たんじゃないのか」とけんか腰で声をかけてくる人もいた。

そんな時、京都の友人から呼び寄せられ、友人の会社の仕事を任された。思うようにいかず悩む村主さんを見かねてのことだった。3か月ほど平島を離れ、友人は「このまま残って会社を支えて欲しい」と言ってくれたが、心に湧いたのは「ここに落ち着くために、会社を辞めたのではない」という想い。やりたいことは、やっぱり「島暮らし」だった。
 帰り際、友人からこう言われた。

「なぜ島の人と競争しようとするのか。胸襟を開いて、もっと溶け込んで行ったらどうだ。相手が力を抜いたら、おまえも力を抜くだろう」

村主さん自身、どこか「島の人たちに負けてたまるか、なめられてたまるか」という想いがあったことに気づく。

「その考え方を捨てて、とにかく溶け込むように、お願いされることも快く引き受けていたら、どんどん変わっていきました」

特に島民にとって大事な、船のロープを取ったり荷物を降ろしたりする「通船」の責任者を任されてからは、島民に頼られる存在となり、人間関係はどんどん良好になっていったという。
一方で、一人前の漁師になる道はなかなかに険しかった。
そこで、会社を辞めるとき、「島に行ったらやりたいこと」を二つ考えておくべきと知人に言われていた村主さん。そのとき考えたうちの一つ、「魚醤づくり」に挑戦しようと思い立つ。

魚醤づくりもまた初心者からのスタート

発酵中の魚醤の樽がズラリと並ぶ現在の工房

 村主さんが「魚醤」に目を付けたのは、魚の頭や骨など、本来なら廃棄となる部分を生かしておいしいものが造れるという点に魅力を感じたからだと言う。

 まずはインターネットで作り方を検索。初めて作ったそれは、「魚醤」とは言い難い、ひどい出来栄えだった。そこで村主さんは、鹿児島地域振興局を頼る。事情を説明すると、水産技術センターにいる魚醤の研究者を紹介してもらうに至り、最終的には水産技術センターに3日間泊まり込んで造り方を一から教えてもらった。

魚の背骨や頭などを砕いたものに水と塩、麹を合わせて発酵させる魚醤

発酵後のろ過作業。数回繰り返し、洗練させていく

 魚醤の作り方を習得し、次に取り組んだのは、どのように商品化し販売していくかということ。前職の知人に相談すると、今度はその道に詳しい近畿大学の川崎賢一教授を紹介される。

 初心者から始めたにもかかわらず、村主さんの魚醤が成功したのは、村主さん自身のバイタリティはもちろんのこと、行き詰ったときの相談先を得る情報収集力や、それまで築いてきた人脈に支えられたところも大きかったようだ。

平島から坊津へ窮地に支えとなった「資格」

 平島に移住し11年。島民から頼られる存在となり居心地はとてもよかったが、フェリーは週に2便しかないうえ天候が荒れるとさらに足止めをくらうという不便さから、家族の強い希望もあり、鹿児島県本土への転居を決めた村主さん。知人のいた南さつま市で、船も係留できる坊津町へと移った。魚醤の工房として、解体予定だった漁民センターを運よく借りることもできた。

 しかし、新たな土地での魚醤の製造・販売は、すぐに軌道に乗るような甘いものではなかった。次第に蓄えはひっ迫。調理師免許を生かして病院の調理スタッフとして働いたり、ヘルパー資格を生かしてホームヘルパーをする傍ら魚醤作りに精を出し、少しずつ販路も開拓していった。手作りで無添加、おいしいうえにリーズナブルな村主さんの魚醤は人気が高く、今では地域が誇る特産品の一つだ。

目的は「人の役に立つ」という自己実現

 村主さんが未経験からかたち作った魚醤のビジネスモデル。これは、誰からも見向きされなかった魚の不要部分も、考え方ひとつで生かせることの証明となった。そんな思考の切り替えによって新たな商品やサービスが生まれ、地域が盛り上がっていけばと村主さんは願う。

 次に目指しているのは、仕事のシステム化。個人の資質にかかわらず、地域で商品開発や販路の開拓をやっていけるシステムができれば、持続的なまちや経済の活性化が期待できる。それによって地域の人たちに喜んでもらうことが、村主さんの新たな目標だ。

「海の周り」が村主さんのお気に入りの場所。縁あって辿り着いたこの地が活気づくことを願い、自らにできることを常に探している

村主さんの鹿児島暮らしメモ

かごしま暮らし歴は?

16年

U•I•Jターンした年齢は?

53歳

U•I•Jターンの決め手は?

とにかく島暮らしに憧れていた

暮らしている地域の好きなところ

豊かな自然。いくらお金をだしてもこの自然は創ることができない

かごしま暮らしを考える同世代へひとこと!

初老の青春。毎日忙しいですが、こんな生き方も参考にしていただけたら嬉しいです

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-南さつま市に住む村主賢治さん, 動画アーカイブ, 移住者インタビュー動画, 移住者インタビュー, 南薩
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