西古見にも爆弾が 戦時中に負った傷、今も 体験者の中島良さん、眞澄さん夫妻

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 鹿児島県大島郡の瀬戸内町古仁屋に住む中島良(まこと)さん(95)は同町西古見生まれで、西古見小や阿室小(いずれも旧制の国民学校初等科)に通い、1943年、旧制大島中学校(現大島高校)に進学した。当時は戦闘帽に大中の校章を付け、衣料品が乏しいので半ズボン。中島さんは「足には脚半(ゲートル)を巻いて登下校し、上級生がいたら敬礼していた。軍国主義の教育だった」と振り返る。

 45年、名瀬での空襲が激しくなり、大島中の生徒は郷里に帰され、中島さんも西古見に戻った。食糧難のためソテツの皮を剥いで刻んで水に浸し、毒を抜いておかゆにして食べた。畑で作業をすると、米軍機に撃たれるので何も作物を作ることができなかった。

 空襲が激しくなってきたある日、中島さんが浜でソテツを刻んでいたら爆音と同時に近くに爆弾が落ちた。「爆風が来たがとっさに岸壁にへばりついた」と難を逃れたが「炊きものをして煙が立っていたおばあちゃんとその孫の家に爆弾が落ち、二人は即死だった」と語る。西古見に爆弾は3発くらい落ちたという。

 江仁屋離(えにやばなれ)に海軍の施設があったようで、中島さんは爆弾を落とした米軍機のうち1機だけ高射砲で撃ち落とされるのを見た。火を噴いて落ちていったと記憶する。

 西古見には陸軍の駐屯地が置かれ、松林の中に兵舎(現在のナハンマ公園の辺り)があった。軍事施設があることは知っていた。古仁屋と西古見の間を物資や人を運んでいると思われる船も見た。まだ子どもだったので詳しいことを知ることはできなかった。

 学徒動員で大島中の校舎の上で防空壕(ごう)を掘らされたことも覚えている。1級上の先輩たちは加計呂麻島の呑之浦で震洋艇の穴を掘らされたと聞いた。

終戦は大島中2年の時に迎えた。玉音放送があるということを知らされていた。それを聞いてこれで戦争が終わるのだと思った。日本は負けたのだと。日本は絶対勝つと教えられていたので、それまで負けるという意識はない。涙をぼろぼろ流す人もいれば、「万歳」と言う人もいた。

 戦時中、戦争に反対する人はいたと思うが、言論統制や憲兵の存在があって、「もう負けるかもしれない」という気持ちがあったとしても、みんな口には出せなかった。

 戦後の名瀬も古仁屋も町は焼け野原。大島中の教室にはアメリカの放出物資が入れられて、外でテントを張って授業をしていた。4年生になってようやく校舎が空いた。数学、生物、化学などをやっていた。英語教師は商船の船に乗っていた人が勤めていた。

 中島さんの妻・眞澄さん(87)も西古見出身。戦時中の出来事をよく覚えている。顔に傷を負った時、軍の施設でおばさんが働いていたつてで軍医に診てもらった。後に古仁屋の医者に診てもらったら「縦に切れば傷にならなかった」と言われた。「これは戦争の傷跡」

 小学1年生ころ、朝に学生が早起きして「えいさ、えいさ」と駆け足をしていた。その声を聞いて近所のみんなが起きてグループに合流すると、空き地にわらの人形が立ててあった。竹やりで人形を突く訓練をした。父が防衛隊で学校にいて、妹と二人で弁当を父に持ってこうと路地を出ると、兵隊が列を作って歩いていて、びっくりした。怖くて家に帰ったことを覚えている。

 終戦は小学2年生の時に迎えた。玉音放送で隣のおばさんと母が涙を流していたのを覚えている。

小学校時代の戦争体験を語る中島良さん(右)と妻の眞澄さん=6月15日、瀬戸内町古仁屋

 

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