語られぬ犠牲者たち 奄美も戦場になった 戦後80年―島々の記録と記憶

更新日:

 太平洋戦争の終結から80年。戦中の鹿児島県奄美群島は地上戦こそ免れたが、各地で米軍による空襲や雷撃を受け、子どもを含む多くの民間人が命を落とした。空襲で焦土と化した街、防空壕(ごう)で生き埋めになった人々、撃沈された輸送船とともに波間に消えた老若男女―。今もなお各島に戦争の爪痕は残るが、体験者の高齢化が進み記憶の継承は一層困難になっている。沖縄戦や本土空襲に比べ、奄美の戦時被害は十分に知られていないのではないか。戦後の米軍統治下からの日本復帰運動がクローズアップされることはあっても、戦時下の暮らしや戦後の混乱、民間人の被害の実態は語り部の少なさも相まって忘れられつつある。改めて当時の記憶と記録を手繰り、島ごとに歴史を見詰め直す。

■奄美大島 軍事拠点として標的に

 太平洋戦争当時、奄美群島は日本本土と南方戦線を結ぶ戦略上の要衝として米軍の攻撃対象となった。1942年3月4日、名瀬の北西約40キロの海で「多喜丸」(1243トン)が米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。43年に日本軍がガダルカナル島で敗北すると潜水艦攻撃は本格化し、44年10月10日以降は空襲も加わって住民の暮らしと命が脅かされた。

 奄美大島の陸地では、軍事施設や通信施設、港湾設備などが集中していた龍郷町赤尾木、奄美市名瀬、瀬戸内町の3地域が特に激しい攻撃にさらされた。

 龍郷町赤尾木には無線通信施設が置かれており、周辺地域は繰り返し空襲を受けた。多くの住家や農地が焼失し、住民たちは防空壕や山の疎開小屋に避難しながら、飢えと恐怖に耐える日々を送った。

 名瀬市街地は当時、奄美群島の政治・経済の中心地として人口が集中していた。住宅密集地への空襲被害は極めて深刻で、終戦間際には市街地の大部分が灰燼(かいじん)と帰した。

 瀬戸内町には明治期から陸・海軍の軍事施設が構築され、太平洋戦争時には奄美群島最大規模の軍事拠点となったことで米軍の激しい攻撃を招いた。戦況の悪化につれ、44年10月以降は敵艦艇に体当たり攻撃を行う陸・海軍の特別攻撃部隊も配備された。

■ □ ■ □ ■

 戦後80年の節目に取材班が奄美大島各地で調査を進めたところ、生々しい被害の様子や記録には残っていない犠牲者の記憶を聞くことができた。今企画では奄美大島を皮切りに、喜界島、徳之島、沖永良部島・与論島の4地域に分けて体験者の証言を掲載する。

大島海峡東口の防衛を担った安脚場砲台跡=2022年8月12日、瀬戸内町(小型機で撮影)

 

『南海日日新聞』LINEニュース配信中

その他のニュースはLINEでチェック!

友だち追加

-あまみじかん
-, , , ,