武家屋敷群で営みを ツリーハウスで憩いを薩摩川内、入来町で生きる術を創る<中編>

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鹿児島県の北西部に位置する薩摩川内市入来町は、三方を小高い山々に囲まれた盆地にある静かな町。700年の歴史を持つという入来温泉と国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている入来麓武家屋敷群など、多くの史跡があり、温泉と歴史の町として知られている。

この入来麓武家屋敷群に暮らすのが、中川功さんと宮原郁さん。2012年6月に千葉県からIターンしてきた。かごしま暮らしを始めて7年目のいま、生業を創るためにコツコツと蒔いたタネが少しずつ実り始めているという。住まいはある。仕事はない。そこから2人が考え、実践しつづけてきたのはどんなことだったのだろう?

コラム:里山 真紀 撮影:高比良 有城 2018年8月取材

<前編はこちらから>

地域で勤め、土を耕し、生活の基盤を確立

「移住してきた当初は、毎日が非日常なんですよね」と宮原さん。「何をしても面白かった」と中川さんもうなずく。事実、林業の講習を受けるため、自転車で2時間かけて山道を上っても苦にならなかったという。その情熱は、すぐに農業へ向けられた。

「まずは自宅にニワトリ小屋を作りました。次に庭を畑にしようと思っていたら、シラスの土地に作物が育つわけがないと地元の方に諭されて。そこで、空いている畑を借りることになったんです。まずは、荒れ放題の土地に生えていた草を全部刈って、燃やすところから始めました。

水はけが悪く、ぬかるんでいるような状態だったから、穴を掘って、水路を作って、土管を埋めて、水が溜まらないようにしました。そして、少しずつきれいに耕して、樒(しきみ・仏前に捧げられる常緑樹)を植えたんです」(中川)

移住前の農業経験は家庭菜園程度だったという中川さん。ほぼ自己流で取り組んだ樒(しきみ)栽培は、生計を支えるまでになった

「楽しくて仕方がなかったですね。汗が目にしみるだけでうれしくて。こんなの学生時代の部活以来だって。農業ができるという喜びがありました」(宮原)

開墾さながらの作業は、これまでの人生で幾度となく道なき道を切り拓いてきた中川さんの性に合っていたようだ。すぐに「田んぼもやってみたら」と声がかかり、米づくりにも取り組み始めた。

こうして着々と農業の基盤を整えながら、中川さんは地域の施設で介護士として働き、宮原さんは産業廃棄物の分別などのパートをして、家計を支えていた。

武家屋敷群の一角にある田んぼ。奥には国の重要文化財に指定されている「旧増田家住宅」が見える

広がったご縁に導かれて 二人三脚で始めた飲食店

そんな2人の暮らしに転機が訪れたのが、2016年。地元の商工会青年部有志が立ち上げたレストランを引き継いでほしいというオファーがあった。折しも中川さんは農業に専念できる見通しが立った頃だった。しかし、宮原さんは、この依頼にピンとくるものがあったという。

「彼はもう農業一本でいくつもりの準備段階だったのですが、“1日3〜4時間でいいから手伝って”とお願いして、承諾してもらったんです。ところが実際にやってみると、もともと日本料理をやっていた人ですから、やはり料理に凝って、ランチは御膳にしようと。営業時間は短いのですが、その3倍ほどの仕込み時間がかかるんです」(宮原)

たとえば、日本料理に欠かせないだしは、毎朝、枕崎産かつお節で引く。また、並々ならぬこだわりを感じさせるのが、西郷隆盛が愛した豚肉と麦味噌をテーマにしたご当地メニュー・せごどんぶい。

まず、六白黒豚のバラブロックは脂を上にして6時間蒸す。こうして余分な脂を落とした上で、青梅ピューレを隠し味にした特製麦味噌だれでさらに煮込んでいる。食欲をそそるツヤをたたえた黒豚肉を頬張ると、口の中でホロホロとろけた。

「最初は想定外の忙しさになってしまって、農業も思うように時間配分ができず、相当フラストレーションがあったと思います。このところようやくお互いの分担と時間配分が出来てきたと思います」(宮原)

武家茶房Monjoの人気メニュー「Monjoのせごどんぶい」。東京人形町の老舗料亭「玄治店 濱田屋」で10年修業した中川さんの日本料理のエッセンスが凝縮されている

経営者の視点で半農半Xの暮らしをアップデート

もちろん、入来という立地にあって、短時間営業の飲食店だけで生計をたてるのは厳しい。それゆえに複数の生業を持つことを2人は意識し続けている。

「新しい地で生業を創るのは、そんなにたやすいことではありません。ましてやこの年齢で、どこかで勤め上げるというわけでもない。新しいことをどんどん探して、実践できたのは、本当に彼の力だと思います」(宮原)

「畑は余っていて、どうぞ使ってくださいと言われるんだから、あとは市場に出せる作物を作って売るだけ。ちょうど林業の講習で、たけのこ、しいたけ、枝物を学んだのですが、たけのこは自分でやるには利益的に厳しそうだし、しいたけはさまざまな機械が必要だった。実際にやってみても、山の中の仕事で結構大変だったんです。

じゃあ枝物は?と考えた時に、樒(しきみ)は機械も使わず、手間もかからないから、いいかもしれないと思って。以前は中国から日本に入ってきていましたが、だんだん入らなくなってきて、国産が求められるようになったんです」(中川)

中川さんの話を聞いていると、経営者として培ってきた判断力と行動力が農業にも活かされていることがよく分かる。

「樒(しきみ)の卸先は、最初は技物講習の先生にサポートしていただき、今年からはすべて自分で開拓しました。生花店に直接電話して、サンプルを送るところから始めたんです。3年間少しずつ出荷してきたけれど、本格的な出荷は今年から。

飯を食べられるようになるまで、何でも3年くらいかかります。入来町で樒(しきみ)を育てているのはうちだけでしたが、売れるようになってくると周りの目も変わります。最近は“自分もやってみたい”という声も出てきました」(中川)

収穫した樒(しきみ)は長さを揃えて、束ねてから出荷。今後は加工場も整備する予定だ

移住1年目の壁を破る後押しをしたい

自ら生きる術を創るために始めた樒(しきみ)の栽培。その奥には、もう一つの想いが秘められていた。

「移住1年目によくあるのが、前年度の税金が払えなくなること。これは意外と盲点なんです。地方の給料だけでは最初の年は乗り切るのは大変です。だから、1年目から稼げるものがあればいいと考えました」(中川)

中川さんの樒(しきみ)畑は、全部で6反。自分たちが暮らすには余りあるほどの収益をあげられるため、移住者に貸すことを思いついたという。

「これから移住してくる人たちの後押しや将来のステップになればいいなと。3年頑張れば、樒(しきみ)の栽培で生計が立てられるようになるはずです」

続く〈後編〉では、いよいよ森の中のツリーハウスが登場!手作りのツリーハウスに中川さんが託した想いとは?また、自分の居場所を見つけ、生きる術を創るための秘訣も紹介します。

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