太平洋戦争中に米潜水艦の攻撃を受け沈没した疎開船「対馬丸」事件について学ぶ第4回対馬丸平和継承プログラムの本研修が22日、鹿児島県奄美大島で始まった。沖縄県内の小学5、6年生9人が対馬丸平和記念館の平良次子館長(63)らと来島。23日は対馬丸慰霊碑が建つ宇検村船越(ふのし)海岸や犠牲者が流れ着いた大和村の港を訪問し、奄美での救助活動や慰霊碑建立の経緯、島の歴史などを学びながら、犠牲者をしのんだ。
同プログラムは対馬丸記念会(高良政勝代表理事)が主催。昨年から奄美で研修を行っている。
対馬丸は1944年8月21日、学童や疎開者を乗せ那覇港を出港。長崎へ向かう途中、米潜水艦「ボーフィン号」の魚雷攻撃を受け鹿児島県悪石島沖で沈没。一部の生存者や犠牲者は宇検村や大和村、瀬戸内町の海岸に漂着し、住民が救助活動を行った。
宇検村防災会館では元村長の元田信有さん(75)と、父親が救助活動に加わった大島英世さん(76)が講演。元田さんは慰霊碑について「碑を通じ人のつながりが生まれた。戦争の悲劇を胸に今後も力になりたい」と語った。船越海岸の慰霊碑前では、那覇市立高良小6年の児童(12)が「あなたたちを忘れないために沖縄から来ました」と、手紙を朗読。浜で黙とうと献花をささげ、午後は大和村の中山昭二さん(71)の案内で漂着地や埋葬地を訪れた。
那覇市立松川小5年の児童(11)は「奄美に来て島や対馬丸の事を学べてよかった。戦争は無慈悲に人を殺す。港を訪れ、悲惨さや愚かさを感じた」とかみしめた。
平良館長は、母の啓子さん(享年88)が宇検村枝手久島で救助された生存者。「今後は現地での滞在時間を確保し、子どもたちが自分の言葉で表現できる機会をつくりたい。生存者が疎開先の鹿児島で体験した出来事の調査なども続けられたら」と話した。また、戦時下でのかん口令について「歴史をえぐる、かき消すものだった」と指摘。生存者の中には長年にわたり体験を語ることができず、友人や家族を失い生き残った罪悪感を抱えたまま生きた人も多いとして「複雑な感情があることを子どもたちに学んでほしい」と語った。

対馬丸の慰霊碑を訪れた沖縄の児童らと元宇検村長の元田信有さん(左)=23日、宇検村の船越海岸

