「原爆に殺された」 奄美市の吉岡清江さん=挺身隊の姉、長崎で亡くなった姉を 語る

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 太平洋戦争中、徴兵による労働力不足を補うため、12歳から40歳までの未婚女性が軍需工場などで勤労奉仕に従事した。鹿児島県奄美群島からは推定で約1200人の女性が挺身(ていしん)隊として長崎へ渡り、このうち約200人が原爆で即死したといわれている。奄美市名瀬の吉岡清江さん(88)の姉・幸子(ゆきこ)さんも、長崎で犠牲になった一人だった。「二度と繰り返してはいけない」。清江さんは語る。

 姉の幸子は名瀬国民学校を卒業後、叔母を頼って東京に行くはずだったのが、女子挺身隊として三菱の長崎造船所に行くことになった。当時数えで17歳、早生まれなので実年齢は15歳。長崎での仕事が終わったら今度こそ東京に行くつもりだと言っていた。真面目で、妹の目から見てもとてもきれいな人。母は「幸子は体は小さいけれど頭がいい」と褒めていた。

 姉が奄美を出る日、母はまだ幼い弟をおぶって名瀬港まで見送りに行った。船が立神の向こうに見えなくなっても、「お母ちゃん!お母ちゃん!」と叫ぶ声が聞こえていたと母から聞いている。これが姉と家族との最後の別れになった。

 終戦間際、私たち家族は県本土に向かうつもりでいたが、出港直前に船が空襲で駄目になり、両親の田舎である宇検村屋鈍に疎開することになった。頻繁に空襲があり、警報のたびに真っ暗で狭くて怖い防空壕(ごう)に入らなきゃいけないのが嫌で嫌でたまらなかった。意地悪な男の子に「ここはシマの分だからお前は出ていけ」と壕を追い出されたこともあった。小さな弟の手を引いて、集落の道を心細く歩いたことを覚えている。今でも暗い場所は大嫌い。

 しばらくして「新型兵器で長崎が大変なことになった」という話が伝わり、母はとても気にしていた。終戦になり、陸軍へ兵隊に行っていた一番上の兄が県本土から帰ってくるとき、姉の骨壷が入っているという白い箱を持ってきた。振ると何かが転がる音がしたが、本当に骨が入っていたのかは分からないし、中を確かめようとはしなかった。

 長崎への原爆の投下は午前11時2分。「おなかを空かせて、お昼ごはんを待っていただろうに。おなかいっぱいになることもなく幸子は殺された」と言って、人目をはばからず母は泣いた。普段は絶対に涙を見せない人で、子ども心に「母ちゃんは世界一強い人なんだ」と思っていたが、姉の話をするときだけはいつも涙を流していた。

 終戦から80年になる。戦争には絶対反対だ。絶対に、絶対に繰り返してはいけないと伝えたい。姉と母のような不幸なことは、もう誰にも起こってほしくない。

原爆で亡くなった姉の幸子さんについて語った吉岡清江さん=1日、奄美市名瀬

 

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