戦時中、国策によって旧満州(中国東北部)に多くの人が渡った一方、帰国までの道のりは苦難の連続だった。「満州開拓団の記録と資料」(鹿児島県宇検村)によると、1942(昭和17)年から3回に分けて送り出された「第11次敦化(とんか)宇検開拓団」の在籍者324人のうち、127人が死亡。未帰還者も35人いた。鹿児島県宇検村出身、在住で、小学生だった当時、一家7人で渡った泉義夫さん(92)と妹の藤野キサ子さん(90)に話を聞いた。
◆満州での生活は
義夫さん ほかの家族と一緒に農業をした。配給もあり豊かだった。大林米太郎村長(当時)が視察に来て各家庭を回った。
◆終戦の知らせは
義夫さん 畑の草刈りを終え、集落に戻ると人々が騒いでいた。
キサ子さん 遠くから1人また1人と兵隊が帰ってきたが父(45年に召集)は最後まで現れなかった。シベリアに抑留されていた。
◆終戦後の生活は
義夫さん 満州の地元民やソ連兵らによる略奪が始まった。別の集落では取り締まりを担当していた青年が殺された。畑で後ろ手に縛られ、裸で見るに堪えない姿だった。
キサ子さん 夕飯中にソ連兵が5、6人家に入ってきた。時計を奪われ、母は指輪を取られた。兵隊は別の家に行き、他の開拓団から避難していた臨月の女性が性暴力に遭った。
義夫さん 畑で作物を収穫していた時に、通りかかった騎馬隊から銃弾が飛んできたこともあった。
◆集落からの脱出は
義夫さん 集落民みんなで米や豆を持てるだけ持って深夜に脱出した。大きな川に掛かる丸太の橋を何百人もが渡った。鉄のかぶとで米を炊いて食べた。
キサ子さん 貨物列車で移動中、私が弱っていると母が「水を飲ませば生きるよ」と兄に言った。
義夫さん 駅で水をくんでいたら、汽車が動き出した。「よしおー」と遠くで母が呼ぶ声が聞こえた。走って追い掛け、何とか引き上げてもらった。人生の分かれ目だった。
◆避難地(奉天)では
義夫さん 計器工場に集団で住んだ。衛生環境が悪く、多くの人が亡くなった。母は(石炭加工物の)コークスを拾い集め、市場で売っていた。
キサ子さん 母が中国警察に捕まった。母の求めで子ども4人が呼ばれ、「母ちゃん母ちゃん」とすがると情で許してもらった。
◆日本への引き揚げ時の様子は
義夫さん 船ではよく甲板にいた。たまに「ぼぉー」と汽笛が鳴った。船で亡くなった人の遺体を海に落とし弔う水葬だった。舞鶴に入った時に見た松の風景に、「やっと日本に帰れた」と胸が熱くなった。
キサ子さん 奄美へ向かう途中、栄養失調で亡くなった人もいた。古仁屋に着くと、おじ2人が迎えに来ていた。ふかし芋をもらい、母が喜んで踊っていた姿が忘れられない。後に父から電報が来て生きていることが分かった。
◆いま、伝えたいことは
義夫さん 宇検開拓団が団結し帰ることができて感謝。(戦後、旧ソ連から受けた行為に)許せない気持ちがあり自衛隊に入隊した。ただ一番願うのは平和。平和なくしてその人の幸福はない。
キサ子さん 1人で4人の子を連れて帰ってきた母の思いや気持ちに感謝しかない。戦時中だけでなく、後に残ったこの苦しみは二度と味わってはいけない。

満州開拓団での経験を語った泉義夫さん(左)と妹の藤野キサ子さん=5月23日、宇検村