プロローグ
「自分が生まれ育った街の素晴らしさを本当に知りたいなら、一度離れた方がいい。そうすることで見えてくる魅力が必ずあるから」
こう話してくれたのは、2014年に地元、奄美大島へUターンを果たした島崎仁志さん(36歳)。
現在は自身が立ち上げたアウトドアウェアブランド『devadurga(デヴァドゥルガ)』の直営店「GUNACRIB(グナクリブ)」を経営しながら島の仲間と様々なイベント活動を行なっている。
島崎さんはなぜ島へ戻ることに決めたのか?島を離れて感じたこととは?島崎さんの本音に迫る。
インタビュー:満崎千鶴 撮影:高比良有城 取材日2018年11月
島立ち
「鹿児島市」から南へ向かうこと380km。年間平均気温が20度を超す奄美大島は面積712.35キロ平方メートルと沖縄本島・佐渡島についで3番目に大きい島。そこには奄美市・龍郷町・大和村・宇検村・瀬戸内町と5つの市町村に約64,000人が暮らす。
島崎さんはこの奄美市の中心地から車で約30分のほどの町、住用町で生まれ育った。この町には国内2位の広さを持つ雄大なマングローブ原生林(国定公園特別保護区)が広がり、深く美しい森の姿を見ようと連日たくさんの観光客で賑わう。
島崎さんは幼少時代から高校卒業を迎えるまで、この誰もが羨む美しいマンングローブを横目に通学する日々を過ごしていたという。
そんな島崎さんが島を離れることになった理由は単純で、就職のためだった。
「高校卒業と同時に自衛隊に就職し、島を出ました。本当は、興味のあった服飾関係の仕事に就きたかったけれど自衛隊は内定が決まるのが早くて、9月〜10月頃でしょうか?周りの友達が就職活動これからって時に進路がもう決まっているのです。早く決まれば、残りの半年間高校生活を楽しめるな!と思って自衛隊に就職することを決めました(笑)」と進路を決めた経緯を振り返り笑う。
こうして島崎さんは島立ちを迎えた。
『devadurga(デヴァドゥルガ)』の誕生
千葉県にある陸上自衛隊へ配属が決まり、晴れて社会人としての生活がスタート。“もっと自分を表現できる仕事がしたい”と、2年間という任期満了を迎えたタイミングで退職。高校の頃から興味のあった服飾関係の道へと進むことを決意し、東京へ。
大好きだったストリートブランドを扱う裏原宿にあるお店へ入社し、店員からスタート。店長という責任ある立場を経て、生産管理・デザインに関する事まで7年間という長い時間をかけて学んだのち、以前から夢抱いていた自身のオリジナルブランドの立ち上げ準備を始めるため退職した。
当時は様々なブランドが立ち上げては辞めていく厳しい時代。
「今の時代にブランド作るの?」と周りから批判を受けながらも、渋谷の5畳ほどしかない雑居ビルの中で、友人と2人事務所を構えスタートした。
「アウトドアというガチガチのウェアを作るより、自然の中から生まれるもの=アウトドアというイメージでしょうか。自然でしか作れない商品作りを展開したかった」と話す島崎さんは、生まれ育った奄美大島だけに伝わる独特の染色方法、「泥染め」に着目した。
「高校を卒業して奄美を出るまで自分自身も正直、泥染めには一切興味もなかったし触れたこともなかった。もちろん紬や泥染めは知ってはいたけれど、こんなに大変な工程を経てようやく紬が一着出来るとか、こんなにたくさんの工程があって糸が黒く染まるとか、全く知らなかったですね。その背景を知ると本当に衝撃で、値が張るのも当たり前だと分かりました。」と話す。
こうして2010年に『devadurga(デヴァドゥルガ)』は誕生したのだ。
未来へ繋がる転機
ブランドを立ち上げてからは1年に2〜3回ほど制作活動のため、奄美大島へ戻る生活を続けていたけれど、決して順風満帆とは言えなかった。
店舗を持たず、ネット販売のみで勝負していたこともあり、作れば作るほど在庫はかさみ事務所の中は足の踏み場もないほどに。
遠隔にいながら自分の理想とする色のイメージや形を伝える作業は上手く行かず苦戦する日々が続いた。
ブランドを立ち上げて数年後、知り合いの経営者に「一緒に店をやらないか?」と声を掛けられ、いよいよ代々木上原に実店舗を持つことになった。
ちょうどその頃、友人を介して知り合ったグラフィックデザイナーのなおみさんと結婚。
奥様の書いていたグラフィックに島崎さんが惚れ込んだのがそもそもの始まりだったというが、可愛らしい見た目とは裏腹に、インドへ1人バックパックの旅へ出かけるなどアクティブでギャップのある姿に惹かれ、2人の交際は始まった。
「結婚するまで実は数回しか会っていないんですよ」と島崎さんは笑うが、ブランドを立ち上げたばかりの苦しい時期、奥様の支えがあったからこそ今があると話してくれた。
こうして“アトリエ兼店舗”というスタイルで、仕事をしながら接客できる環境に確かな手応えを感じ、『devadurga(デヴァドゥルガ)』の認知度も随分上がったというが、島崎さんが最も大きな変化を感じたのは“お客さんの顔が見える事”だったという。
それから2年間、販売を行いながら制作を続けたのち、東京佐々木の参宮橋駅近くにあるカフェの中に移転。
「移転前はどちらかというとコアなお客さんが多かったけれど、カフェに来る女性のお客さんが商品を手にとってくれるようになり、客層が大きく変わりました。」と当時を振り返る。
お客さんの顔が見える実店舗での経験と結婚、この2つが島崎さんの未来へ繋がる大きな転機となった。
職人との出会い、そしてUターン
一歩一歩、少しずつではあるが前へ進み、軌道に乗り出した頃、現在のパートナーとなる染め職人「肥後染色」の山元隆弘さんと出会う。
肥後染色は昭和48年から続く伝統ある奄美の泥染め工場。
泥染めは、車輪梅(シャリンバイ)という海岸近くに自生する常緑樹を煮出した液を使って染色した後、泥田に漬け泥に含まれる鉄分(Fe)をタンニンと反応させることによって、茶褐色の糸が黒い褐色へと変化する。
色の仕上がりは職人の長年の経験値によって大きく左右するというが、肥後染色の出す深い色は島崎さんが理想とする絶妙な色合いと見事に重なり期待通りの仕上がりをみせた。
肥後染色の娘婿である山元さんは、自身も全国の物産展を回りながら、“泥染めの魅力を世界へ届けたい”と積極的に活動を行なっている人で、島崎さんのやりたいことをすんなりと理解してくれる良き理解者だった。
そして2014年、島崎さんは生まれ育った奄美大島へと家族を連れてUターンすることを決意。
「ちょうど子供が生まれて一年が経った頃で、奄美大島のように自然を満喫するためには何時間もかけて移動しなくてはいけない東京での生活に違和感を感じていました。もっと自然が近い環境で子育てをしたかった。
柄の出し方や色使いも電話やメールでするより実際に見た方がいい。子育てに関しても仕事に関してもいいタイミングでした。」とUターンを決めた動機を話してくれた。
同年8月、たった2週間という短い期間で親しい先輩と共に手作りで作り上げたお店が、『devadurga(デヴァドゥルガ)』の直営店であり、現在の島崎さんの拠点となる「GUNACRIB(グナクリブ)」。
こうして、島崎さん一家の奄美暮らしはスタートしたのだ。
<後編では島崎さんが大切にする“結の心”と島での活動をお届けします>