いちき串木野の人々とのご縁を感じながら、幸せな暮らし方を模索していく(前編)

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プロローグ

鹿児島市から南九州自動車道を北西へ走ると40分ほどで、静かな港町「いちき串木野市」に着く。かつては薩摩藩最大の漁港として、明治からは遠洋漁業の拠点として栄えたこの地。現在は鹿児島県下有数の漁港へと発展した串木野漁港に多くのマグロ船が出入りする。

この海辺の町に山梨県から移住してきた小林史和さんを訪ねた。いちき串木野市初の地域おこし協力隊として一人でやって来た小林さんは、3年の任期を終えた現在もまちに残り編集者・ライターとして活動しながら、市と共に地域おこし活動に取り組んでいる。

小林さんがインタビュー場所に指定したのは、同市の老舗喫茶店「珈琲堂ジャマイカ」。ここは市で初めての自家焙煎珈琲専門店とのことだ。使い込まれた木のテーブルが並ぶこぢんまりとした店内で、コーヒーの香りとクラシック音楽に包まれながらインタビューは始まった。

インタビュー:今田 志野 撮影:高比良 有城 取材日2020年2月

焼酎がきっかけで単身、縁もゆかりもない鹿児島へ


山梨県甲府市出身の小林さんは、いちき串木野市に移住するまで山梨から出たことがなかったという。山梨県内の大学に進み、その後県内の半導体メーカーに勤めサラリーマンとして生活していた。そこで十数年が経った頃、心身を壊すようになり休職にまで追い込まれてしまう。「このまま死んでいくのかな」と考えるようになった小林さんは、長く勤めた会社を辞めた。

しばらくサラリーマンには戻りたくない、でも何かを始めないと、そう思っていた時、友人が始めたゲストハウスで山梨の地域おこし協力隊と知り合い「自由に楽しそうなことをしているな」と感じたという。家に帰りインターネットで何気なく全国の地域おこし協力隊の募集要項を見ていたところ目にとまったのが、いちき串木野市の協力隊募集のページだ。同市に心惹かれた理由はちょうどその頃、焼酎にハマっていたから。当時、同級生が営む蕎麦屋に通っていた小林さん。

そこでいくつかの焼酎を紹介された中で初めて、美味しいと感じたのがいちき串木野市にある大和桜酒造の芋焼酎「大和桜」だった。大和桜酒造は大きな焼酎蔵ではなく流通している数も多くはないそうだが、小林さんは鹿児島から遠く離れた山梨で大和桜に出会った。いちき串木野市の協力隊募集のページを見て、大和桜のラベルに「市来(いちき)焼酎」と記されているのを思い出し「大和桜の蔵がある町だ」と気付いた。

「山梨はワインが家庭の食卓に出るのが一般的なんですが、それが焼酎に代わった土地ってどういう暮らしをしているんだろうって興味があったんです。鹿児島に来るまでは本気でみんな家では黒じょか(急須に似た鹿児島の伝統的な酒器)で焼酎を飲んでいると思っていたんですよ(笑)」

早速、いちき串木野市役所に履歴書を送ったところ、3日後には面接に来るようにと電話が来た。小林さんは生まれて初めて鹿児島に観光気分でやって来たのだが、面接と言うよりは既に採用として話が進んでいて、市の担当職員から住む家や近隣のスーパーなどを紹介されたという。小林さんは「今まで来たこともない、ただ焼酎を飲んだことがあるというだけでこの町で暮らすのってどれだけ楽しいのかなってワクワクしていました」と当時を振り返る。

それが4年前の2016年3月中旬。そして翌月1日には山梨で所有していた車に荷物を詰め込んで大阪からフェリーに乗り、北九州から陸路で鹿児島のいちき串木野市にやって来た。「地域おこし協力隊の制度は“死にはしない程度の”生活は保証されているので何とかなるだろう」そんな気持ちで縁もゆかりもない鹿児島での生活がスタートする。

ちなみに小林さんをこの地へ引き寄せた大和桜の焼酎蔵へは、面接で初めて同市へ来た時に立ち寄ったのだそうだ。実はその1ヶ月前に偶然にも大和桜の杜氏さんとは東京の酒類イベントで出会って会話を交わしていたという。

その時は「では、またどこかで」と別れたが、すぐ後に小林さんが「この町に住むことになりました」と焼酎蔵へやって来たのだから杜氏さんは驚いたそうだ。そんな杜氏さんとは今では地域おこし活動に協力してもらうまでの親しい間柄となっている。

協力隊として自分がやるべき仕事を探りながら

いちき串木野市で記念すべき初採用の地域おこし協力隊となった小林さん。しかも協力隊は当初たった1人。その状況を小林さんは「前例がないという事は何でもできる」と考えたという。地域おこし協力隊としての3年の任期を終えた現在、振り返ってみると「好き勝手やらせてもらえたし、良い思い出の方が多い」と語る小林さん。

行政の独特なシステムや予算のことなど諸問題に直面することは当然あったが、自分が疑問に思ったことは解決するところまで行き着ける環境だったという。「こういう理由だからこれは出来ないんだ、じゃあ、こういう道筋なら出来るんじゃないか」という具合にトライ&エラーでチャレンジできたと振り返る。

移住定住支援員という枠で採用されたものの、着任してすぐは何をしたらいいか分からなかった。町を紹介する配布物を作りたいと言う話が市役所内であがっていたことから、まずは移住を促すための小さなA4三つ折りの小さなパンフレットの制作から始めることにした。最初は、そのパンフレットに載せる市の人口や面積や気候、病院の数など、基本情報を調べながら、町中を歩き回ったという。予算は少なかったのでデザインなども自らやった。それが現在、編集者・ライターという肩書きを持つ小林さんの原点となる。

着任当初は市役所から、いちき串木野市に引っ越して来た人に補助制度についてや書類の書き方を説明するよう言われたという。そんな折に、地域おこし協力隊の制度に詳しい県庁の職員と話す機会があり「地域おこし協力隊は市役所から指示されたことが自分のやるべきことかどうか判断しながらやっていかないと、いち職員と変わり映えしない」と言われたのが印象的だった。

小林さんは、市の担当職員に「補助制度や書類の説明は僕の仕事じゃない」と伝えたところ、「じゃあ、一緒に何をすべきか探していこう」と好きにさせてくれたのだという。

小林さんの協力隊の任期中の代表的な仕事として、「ALUHI(アルヒ)」という市をPRする冊子の制作がある。この「ALUHI」の第1号は小林さんが任期2年目から新たに取り組み、3年目の2018年に発行に至ったものだが、結果的に全国のタウン誌とフリーペーパーが集まる「日本タウン誌・フリーペーパー大賞2018」でReaderStore賞最優秀賞と自治体PR部門優秀賞をダブル受賞するなど、内外から高い評価を得ることとなった。

地域の人との良縁が重なって、今がある

いちき串木野市は鹿児島県内でも綺麗な夕陽が見られる場所として有名だ。鹿児島に来た当初、知り合いも全くおらず「毎日東シナ海に沈む夕陽を見て、たそがれていた(笑)」という小林さんは、冊子の制作を通していちき串木野市をはじめとする鹿児島の地域の輪の中に入り込んでいった。

「とにかく友達が欲しかった」と小林さんは何度も言う。最初は「くしきの盛り上げ隊」という団体の「たけどん」と呼ばれる人に会いに行こうとしたところ、その人物と市役所内で偶然に出くわした。そしてその日のうちに一緒に飲みに出かけ、たけどんが主催するイベントに参加するなど、この出会いが地域のコミュニティに入っていく最初のきっかけとなった。イベントでは地域のおじさんたちが「最近、地域おこし協力隊で来たというのは君か」と話し掛けてくれ、そのおじさんたちが「ほらほら、山梨から来た例の人だよ」とまた別の人を紹介してくれ、人々は好意的に小林さんを受け入れていったという。

小林さんはインタビュー中、「僕は本当に運が良くて」と繰り返し言った。鹿児島に来て地域の人との良縁や、鹿児島との不思議な縁に引き寄せられ、今があるという。インタビューを行った珈琲堂ジャマイカではカウンターに立つマスターの奥さんと小林さんが親しげに話をする様子が見られた。まるで何十年も前から知り合いのような雰囲気である。奥さんは「小林さんは地域のことを一生懸命アピールしてくれるから、みんな喜んでいるのよ」と語っていた。遠い他県から来た小林さんを喜んで受け入れた地域の人々がいたことは「運が良い」と言えるかも知れない。

しかし、それはただの運だけだろうか。小林さんが心を開いて人に会い、地域に溶け込もうと積極的に行動したことが運を呼び込むことに繋がったのであろうと、小林さんの人柄を見て感じさせられた。

小林さんの鹿児島暮らしメモ

かごしま暮らし歴は?

4年目です。

Iターンした年齢は?

36才。

U•I•Jターンの決め手は?

地域おこし協力隊の採用が決まり、死なない程度のお金をもらえると思ったから。

暮らしている地域の好きなところ

いちき串木野市含め鹿児島の人たちの寛容な人柄が好きです。 あと、海の無い山梨出身なので、海に囲まれている鹿児島にはテンションが上がります。

かごしま暮らしを考える同世代へひとこと!

一度来て、鹿児島の人たちと触れ合ってみてから、移住を考えてみても遅くはないと思います。 鹿児島は広いので鹿児島の中でもどのエリアにするのかをじっくり考える時間があるといいと思います。 僕で力になれることがあれば協力します!


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