創作活動を支える蒲生和紙との出会い
野田さん夫婦がなぜ「和紙」のギャラリーをオープンすることになったのか。実は野田さん夫婦と「和紙」は、以前からずっと切っても切り離せない関係だった。ご主人は仕事のなかで木版画や墨絵を描くのだが、その際に和紙を必要とし、野田さんは和紙の糸を使って織る「紙布織り」を手掛けていた。最初は東京や京都から仕入れた和紙を使っていたが、鹿児島へ移り住んで2~3年経ったある時、鹿児島にも和紙職人がいることを知る。伝統的な蒲生和紙の技法を受け継ぐ野村正二さんだ。豊かな水と紙の原料に恵まれた蒲生はその昔、和紙の生産が盛んで、全盛期には300人近い和紙職人がいたという。野村さんとの出会いをきっかけに、毎年和紙を求めて蒲生へ足を運ぶようになる。ある時ご主人が木版画用にちょっと変わった和紙を依頼したところ、自分で創ってみるよう促され、ご主人は野村さんのもとで手ほどきを受けながら、自身で創作和紙を創るようにもなっていた。
ギャラリーオープンにあたり、もともとそんな縁があった蒲生に「野田さん、いい場所があるよ」と更なる縁をつないでくれたのは、姶良町での暮らしで仲良くなった蒲生に暮らす友人。蒲生のなかでも銀行や商店が集まるまちなかの古民家を紹介してくれた。自分たちで内装を手掛るなどして古民家を再生し、満を持してオープンするも、当時は「ギャラリー」というものも「古民家再生」なる言葉や発想も今ほど浸透していなかった時代。最初はなかなか人が入って来なかった。
「地元以外から来る人たちは、何かしら情報を見て目指して来てくれるのだけど、地元の人たちは『ここいったい何を始めたんだろう』『今さら和紙?』という反応で。蒲生の人たちにとって、和紙はもう過去のものというイメージだったんでしょうね」
けれど野田さんにとって、この蒲生の地で名前に『和紙』を冠してギャラリーを始めることには大きな意味があった。
「主人も自分の和紙を創っていましたけど、それは伝統的な和紙ではないんですよね。伝統的な和紙は、野村さんがずっと継いでいらっしゃる和紙で、それを受け継ぐには主人も歳をとっていましたし、若い人に継いでもらえるようなきっかけづくりを何かしておきたかった。それなら『和紙、和紙、和紙』と、いっぱいアピールしておいたほうがいいんじゃないかなと。それで『和紙』ギャラリーにしたんです」
ギャラリーでは展示物だけでなく、野田さんが製作した織物などの販売も少しずつ始めるようになり、通ってくれるお客さんも増えだした。そして蒲生のまちに、地元以外の人の往来が次第に多く見られるようになる。
地元の友人の後押しで新たなギャラリーをオープン
運転免許を持っていない野田さん。姶良の自宅から蒲生の和紙ギャラリーへ自転車で通う日々は8年ほど続いた。もともと古い建物だったギャラリーの老朽化が気になり始める一方で、「自宅とギャラリーが一緒だったら」という想いも強くなり、蒲生で新たに自宅兼ギャラリーを構えるべく土地を探し始め、出会ったのが現在の場所だ。もともとは小学校の跡地だったという。
「土地を見に来たのは4月の初め頃。学校の跡地だったから桜がいっぱいあった。その頃は桜も今よりうんと元気に咲いていてすっごく綺麗で、下には黄色い花や紫のすみれなんかも咲いていて、もう夢のような世界だったの。『なんて気持ちのいいとこや』と。『絶対ここに来たい』と思いましたね」
しかし、そこは姶良市が所有する土地になっていて、簡単に買ったり借りたりできるものではなく、お願いしてみるもなかなかいい返事がもらえなかった。そんな状況を見かね、地元の友人も市に働きかけてくれた。
「『野田さんたちは、もう蒲生で8年も店をやっているじゃないの』と。『今まで蒲生町内はちっともよそからの人が歩いてなかったのに、野田さんたちの和紙ギャラリーができてから、いっぱい人が来るようになってるじゃない。そういう人たちなんだよ』と。そんな風に説得してくださいましたね」
友人の後押しを受けて、野田さんたちも、蒲生への想いを書面にしたためた。とにかくギャラリーに人を呼んで、蒲生の良さを知ってもらうことが自分たちの仕事だと思っていること、蒲生の大クスを丁寧に守っていきたいこと、蒲生和紙への想い…。たくさんの緑に山や川、歴史ある街並みなど、移住者だからこそ感じ取れる蒲生の魅力を、ギャラリーを訪れる人にたくさん伝えていきたかった。
そして構えた新居兼ギャラリーは、和紙や織物、染物の展示販売だけでなく、ワークショップを通して蒲生の魅力やものづくりの楽しさを伝える場となった。地元の人やお客さんの要望でカフェやランチも提供するようになり、現在のスタイルに至っている。
移住先の付き合いで大事にしてきたこと
鹿児島へ来て、県内4ヵ所での暮らしを経験した野田さん。地元の人たちとの付き合いでは、「あるがまま」を大事にしてきた。例えば、引っ越してきたばかりの時は、だれでもその地域のルールは分からないものだ。そこを悪びれる必要はなく、「私たち何もわからないんで」というあるがままの状況を周りにも知ってもらう。「日曜日の運動会は必ず出てきて」と言われても、仕事柄出て来られないかもしれないということを、あらかじめオープンにしておく。あるがままで、できないことは無理をせず、そのかわりできることは積極的に引き受けて無理のない関係を築き、今ではすっかりその土地に馴染んでいる。
最後に、移住を考えている人へアドバイスをもらった。
「とにかく、あるがままでおいで、と言いたいですね。きっと目当ての場所があって『行きたい』と思っている人は、その土地にどこかいいところを感じて、住んでみたいなと思っている。その気持ちのままに移住してみたらいいですし、地元の人たちとのお付き合いも、『郷に入れば郷に従え』というのは基本として大事なことですが、いい関係を続けていくためには、遠慮しすぎずあるがままに、お付き合いしていけたらいいんじゃないでしょうか」
野田さんの鹿児島暮らしメモ
かごしま暮らし歴は?
42年です。
U•I•Jターンした年齢は?
22歳です。
U•I•Jターンの決め手は?
南国や島が好きだった
暮らしている地域の好きなところ
自然が豊かで優しい土地柄
かごしま暮らしを考える同世代へひとこと!
無理せず自分らしさを周りに知ってもらって、地域に溶け込んじゃいましょう